”ごめんなさい”が言いたくて

それは、夏休み…。幼稚園は休園ですが、預かり保育(プレイルーム)では、毎日子供達がやって来て一日中元気に過ごしていました。そんなある日の事です。プールあそびを終えて着替えた子供達が順番にプレイルームの部屋に戻って行きました。プールの片付けを終えて、私もプレイルームに戻ると、数人の男の子が何かを取り囲んでざわついていました。「どうしたの?」と覗き込むと、そこには、淵が壊れた掛け時計が床に落ちていたのです。少し壊れただけだったのですが、きっと、その場に居合わせた男の子達は、かなり“どうしよう……”と焦った事でしょう。覗き込んだ私に数人の子が原因と思われる事を口々に話してくれました。泣きそうな顔をした子もいました。私は、その子達の話をよく聞き、状況やその時計を見て、誰か一人の責任…という事ではなく、みんなでプールのバッグを振り回したり飛び跳ねたりして騒いだ結果そうなってしまったという事だと判断したので、子供達が全員入室して落ち着いたところで、全体に向けて子供達に室内にいるときの注意や入室したらどうしないといけなかったのかという話をして、時計が壊れただけでなく、他の危険もあるという事をみんなで話し合いました。子供達は、静かに私の話を聞いてくれました。「じゃあ、葉子先生が、後でこの時計を修理しておくね。」と言って、そのちょっとした事件をおさめました。

そして、次の日、プレイルームにお迎えに来られたある年中組の男の子のお母さんがプレイルームに向かう前に、たまたま出会った私を、「葉子先生、すみません。少しお話があるんですが……」と呼び止めてくださいました。「何でしょう」と話を聞くと「昨日、プレイルームの時計が壊れたんですか?」と聞かれたのです。「はい。そうなんです。」と答えたところで、「実は、どうやらうちのK君が当たって落としてしまったみたいなんです。○○くんと一緒に当たったんだとか……。葉子先生が直してくださったんだ…って言っていました。夜、寝つかせている時に、おかあちゃん、今日ね…ボソボソと話してくれたんです。明日“ごめんなさい”って言おうか。おかあちゃんも一緒に言ってあげるから……って話したんです。本当にごめんなさい。“ごめんなさい”って言うって言っていたので…。先生、私もこれからプレイルームに迎えに行くので、一緒に聞いてやってくださいませんか?」と言われたのです。それは、昨日の騒ぎの中にいた男の子の事でした。私は、お母さんの話から、昨夜どんな気持ちでK君がお母さんに打ち明けたのかを想像すると愛おしく思えました。私は、お母さんと一緒ではなくても自分から自分の言葉で「ごめんなさい」が言えたら、その子はもっと気持ちよくこの事件を自分の中で解決する事ができるような気がしたので、「お母さん、これから私が先にプレイルームに行って、K君にお話し聞いてみますから、お迎えに行くのを少し遅らせて来てあげてください。」とお願いして、K君の所へ行きました。プレイルームにはたくさんの子供達がいて、集まって来てしまうので、K君と二人だけになれる場所に行き、二人で座り込んで話を切り出しました。「K君、昨日、プレイルームの時計が落ちて壊れたでしょう。どうしてそうなったのか何か知ってる?」と聞き出してあげようとすると、しばらくは、「ん?」「ん?」と言いにくそうにしていましたが、「ぼくと○○君が当たったんだ」と言ってくれました。まだ幼いので、細かくその時の状況を説明するのは難しそうでしたが、よく分かってくれたようで「騒いでたから…」と、小さな声で言ってくれました。もうそれだけで十分でした。「よく話してくれたね。どうして壊れたのかなぁって不思議だったの。これでよくわかったよ。悪かったなぁって思ったら、今度はその時に話してね。」と言うと顔を上げて、「うん。……ごめんなさい」と小さな声で言ってくれました。小さな声でしたが、私には心に響く大きな大きな声に思えました。

夜、寝る前にもきっと、「今日は楽しかったぁ~」と心から思えない何か引っかかるものがK君の中にあったのでしょう。それを思い出してお母さんに打ち明ける時にどんな勇気がいったでしょうか?私が、ガムテープを使ってなんとか直した時計をその日一日見ながらどんな気持ちがしていたのでしょうか?きっと、いい気分で過ごしていたわけではなかったと思います。その時にそのままではいけないような……だけどどうしたらいいのか……。自分で解決策を探せないままどこかスッキリしないまま過ごしていたのだと…。また、お母さんもとても上手にK君の気持ちを聞いてあげられたのでしょう。「あのね…」と話した時、「一緒にごめんねって言おうか。」と一緒になってK君のしんどい気持ちを背負ってもらえて、K君は少し楽な気持ちになって眠れたでしょう。自分からお母さんに話せた…それだけで、十分反省の気持ちを持っている事や、黙っていられなかった気持ちを上手に汲み取ってあげられたのでしょう。

“ごめんなさい”っていう言葉は、なかなか自分からは言いにくいものです。大人だってそうです。でも、世の中の人間関係や社会を平和に円滑に、そして何より、自分がその後も胸を張って生きて行くためにも大切な言葉です。みんな、本当は“ごめんなさい”と言いたいのです。そのままじゃあいけないという事はわかっているのです。こういう事、よくありませんか?

自分から言えた“ごめんなさい”だからこそ、本当の“ごめんなさい”の意味をもち、自尊心を失わず生きて行く事ができるのではないかと思うのです。

今日のご飯はなぁに?!

年々、夏の暑さが異常に増して来ているのをきっと誰もが感じておられるのではないでしょうか?長い夏休みの間、異常気象のニュースが聞かれなかった日がない程、高温や大雨により人や農作物や環境に大きな影響を受けた夏でした。そんな夏ももう終わります。

子供達は、それぞれにいろいろな夏を過ごした事でしょう。この夏に家族で語り合った事や経験した事は、必ずどこかで活かされる思い出となるでしょう。そして、今日から2学期が始まります。しばらくの間は、子供達が話してくれる夏の思い出に耳を傾け、楽しませてもらおうと思います。

さて、我が家では、他県で大学生活を送っている二人の娘がこの夏休みに帰って来ました。帰って来たと言っても、お盆を挟んで一週間程度でした。駅まで迎えに行った私を見つけると、キャリーバッグを引きながら小走りにやって来て、二人揃って「ただいま!」と言ってくれました。久しぶりに見る娘達は、おしゃれをしていてちょっぴり大人びて見えました(父親はただただそんな娘達を見てにやけておりました)。車に乗り込むと、下の娘が「あ~あ、おなかがすいた!今日のご飯は何?」と聞いて来ました。なんだか懐かしい台詞──それは、娘が高校生の時、学校から帰る娘を迎える車に「ただいま」と乗り込んだ後の毎日の娘の第一声でした。その頃には、(何よ!上げ膳据え膳でよく言うわ。)と呆れたりしていました。しかし、家から子供がいなくなった今、あの頃と今の、食を囲む雰囲気は少し違っています。だから、久しぶりにその台詞を聞いた時、とても嬉しい気持ちになりました。それから、「あのね、リクエストがあるんだぁ。お母さんのご馳走で食べたい物を決めて帰って来たの。“ポテトサラダ”と“肉じゃが”と“ソウメンカボチャの酢の物”と“揚げナスの南蛮漬け”と“団子汁”!!……食べた~い!」と言いました。大したご馳走でもないのに、それを楽しみに帰ってくれたんだと思うととても嬉しかったです。「一緒に作る?」と聞くと「うん!いいよ!教えて教えて!」と、今までは食べる専門だった娘達が、これまでになく本気で返してきました。それから、買い物をしたり畑で野菜を採って来たりして一緒に夕食を作りました。

今思えば、「お母さん!おなかすいた!」「ご飯まだぁ?」「今日のご飯はなぁに?」──という言葉のなんと温かい事。毎日一緒にいた時には、思わなかった事です。子供達は、お家の人が自分のために作ってくれるご飯が、何より楽しみでおいしい食べ物なのでしょう。美味しい美味しくないという問題ではなく、我が家の温かさを肌(胃袋?)で感じる事が出来る物なのです。お弁当もそうかもしれません。当たり前のように作ってもらっているお弁当だけれど、子供達が大きくなって、お弁当が要らなくなったら、その時に(あぁ、お家の人が作ってくれたお弁当が食べたいなぁ。)と懐かしむ時が来るでしょう。また、逆に、作らなくて楽になった…と思っていても、使わなくなったお弁当箱を見て、早起きをして何を入れようかと一生懸命に考えて作っていた頃を親もまた思い出すのです。そして、お互いに(元気でいるかな?)(会いたいな)と心と心を繋いでくれるものになるのだと思います。そんな事を思いながら、出来上がった夕食を囲み、家族みんなでいただきました。娘達は「これなんだよねぇ。この味!やっぱり美味しいわぁ。帰って来た!っていう気がする。」と喜んで食べてくれました。

子供達がまだ幼い間は、お家で作ってもらったご飯を普通に“美味しい”と食べて大きくなっています。家族でご飯を食べる毎日も当たり前の事だと思っています。でもきっと、いずれ親元を離れ巣立っていく時に、この事が、“特別なもの”になっていくのを感じるはずです。親も子もお互いに懐かしく思い出され、その味や食卓を囲んでいた記憶や思い出に励まされたり勇気や元気をもらったりする時があるのです。どうぞ、子供達が「お母さーん!お父さーん!おなかすいた!」と言ってくれる事に幸せを噛みしめて毎日を過ごしてください。いつか、“あの味が忘れられない!食べたい!”と思って私達親元に帰って来てくれる。その味を口にして、“あ~ぁ、帰ってきたんだなぁ~”とホッと安心して心を癒してくれると思ったら、子供達は、小さかった頃からの一つひとつを心に残しながら育っている事を実感します。何でもなく思えている日常の中、子育てや仕事や家事に必死で、なかなかそれを実感する事がないかもしれません。でも、「お母さん!今日のご飯はなぁに?」「お父さん!遊ぼう!」「これ、教えて!」とどんな事でも、お父さんやお母さんに求めて来る言葉や態度を心で受け止めてやってください。子供達は、その事に応えてくれるお父さんやお母さんの事、その時の景色や匂い、音や味、感触等全てを心に残します。そして、心と心を繋いでいくものになるのだと思います。

この夏、特にどこにも連れて行ってあげる事が出来なかった…思い出を作ってやれなかった…と思われているお父さんお母さんもおられるかもしれませんが、いつものように、一緒にご飯を食べたり、話をしたり、寝たりする事にでも喜びを感じながら、子供達は、家族の日常の一つひとつを思い出に心に刻みます。

娘がまた行ってしまった後、部屋に手紙が置いてありました。

『お母さん? 私がリクエストしたご飯をぜーんぶ作ってくれてありがとう!やっぱ、お母さんの料理が一番だわ~』……こんな事を言ってくれるのは子供だけですよ。

平和を考える

♪ヤッホッホなつやすみ♪ヤッホッホなつやすみ♪月火水木金土日、まいにちたのしい なつやすみ~♪───保育室から、毎日響き渡る子供達の歌声は、何だかいつもとは少し違うワクワク気分で元気いっぱいです。もう随分前から、「夏休みになったら、おじいちゃんおばあちゃんの所へ行くんだぁ。」とか「○○に連れて行ってもらうんだよ。」とか「きんさい祭りに出るの。」等、子供達が、色々と話してくれていました。夏は、大人も子供も普段の生活から少し開放されるところがあり、何となく楽しみがたくさんあるように思えるのではないでしょうか?その反面、学校や幼稚園が休みで、毎日家にいて大人のペースが崩れてしまう大変さも……お察し申し上げます…(苦笑)まあ、そう思わずに、この夏休みにしかできない…だからこそできる事をお子さんと一緒に経験する夏にしてみてください。

さて、この時期になると、特に私達の住む広島では、どこにいても目に飛び込んでくる文字があります『平和』という言葉です。70年前の8月6日、広島に世界初の原爆が投下されました。私達の想像を絶する多くの命や財産を失い言葉にできない悲惨な歴史を背負う事になりました。また、その3日後の8月9日には長崎へ…。原爆被災地に住む私達にとっては、特別な気持ちで迎える日があります。私も小学校の時の夏休みには8月6日が登校日で、平和についてみんなで考える日となっていました。戦争について学んだり平和とは何かを考える特別な日だと意識していました。それが、大学生になり広島を離れて生活するようになると、それまでは凄く特別な気持ちで迎えていた8月6日なのに、周りの人達も広島の悲劇を語るでもなく普段とそう変わりなく時間が過ぎその一日が終わっていたような気がします。今、大人になって守らなければならない大切な家族が出来て改めてこの8月6日を含め『平和』について考えるようになりました。広い世界の歴史として見る戦争をズームアップしてその戦下にあった場所に目を向け、さらにそこに住む人々の壊された生活に目を向け、また更に、大切な人を失ったそれぞれの家の悲しみや苦しみに…そして、幼い子供達の声にもならない泣き声や叫び声を想像すると、そんな歴史の上にある今の『平和』の意味の重さや深さを感じずにはいられません。

少し前に、主人と二人で、鹿児島に旅行にでかけた際、知覧特攻平和会館に足を運びました。楽しい旅の途中に行ったその場所には、重く決して笑顔にはなれない空気が漂っていました。そこに展示されている数々の資料を観て回る間中涙が止まりませんでした。楽しい数日の旅行中にふと立ち止まり、今あるこの幸せの有難さを感じ、家族や自分の周りのあの人にもこの人にもこれから先ずっとこの平和が続きますように…と祈り、『平和』を誓う気持ちを強くしました。

この夏休みにぜひ、子供達にも『平和』について、わかりやすく話をする機会を作ってみてください。しかし、幼い子供達にはまだ十分な理解はできないと思います。何も、戦争と直結させなくても子供目線になって『平和』の解釈を話してあげてください。心穏やかに、皆が楽しく過ごせる事も平和という事だと思います。その平和のためには、自分の想いを主張するばかりではなく、相手を大切に思う気持ちを持ちながら友達や周りの人達の話にも耳を傾け、理解しようと心を寄せる事で、平和の空気は作れるのではないかと思うのです。子供達の小さな世界にも『平和』は必要です。この小さな平和を作り守っていける子供達が、将来世界を平和にしていくのではないでしょうか?世の中を平和にしていくのは、何も大人だけにしかできない事ではありません。小さな子供達が作る小さな平和…その根底にあるものは、幼い子供達が心穏やかに楽しく過ごすために……この方法を知っていくことからもう平和への意識作りは始まっているのだと思います。友達と仲良く遊びたいという気持ち、動物達を可愛いと思う気持ち、みんなの物はみんなで大切に使うという約束を守る事、「ありがとう」「どういたしまして」「ごめんなさい」「こちらこそ」と言える事、これら全てが『平和』への道に繋がっていくのです。『平和』の種は、子供達の周りにもたくさんある事を子供達に教えてあげましょう。平和を作るのも人間、乱すのも人間。

夏休みの間には、お盆もあります。私達が幸せに暮らせている事に、辛い時代を生き平和を築いていただいたご先祖様に感謝し、手を合わせる事も、子供達に平和を意識させる良い経験だと思います。今や、戦争を経験され語り部として私達に伝えてくださる方が少なくなって来たと言われています。この夏休みにおじいちゃんおばあちゃんの所に行かれ、もしそこで少しでもそんな話に触れる事ができるなら、どうか、子供達に伝えてもらってください。若いおじいちゃんおばあちゃんでも、そのまたおじいさんおばあさんから聞いた話でもいいと思います。そうして平和への気持ちを伝承していくのです。

さあ!明日から♪ヤッホッホなつやすみ♪です。色々な計画を立て、元気で楽しい夏休みをご家族でお過ごしください。そして、新しい環境を受け止め色々な事に挑戦して楽しんできたこの1学期を“よく頑張ったね。”と褒めてあげたり、“楽しかったね。”と親子で振り返ったりする良い時間になる事を願っています。

回しを締めて…いざ!(平成27年度7月)

プールから子供達の歓声が響き渡ります。園庭では乾いた地面に水を運び泥団子作りやおままごと、小川ではザリガニやエビの可愛い赤ちゃんを見つけようと一生懸命な姿……。幼稚園内の自然と戯れて遊ぶ子供達の様々な姿が、実に生き生きとして見られます。そろそろ夏休みの声も聞かれます。この夏にいろいろなあそびを経験し、一段とたくましくなっていくことでしょう。

さて、夏休みに入るとすぐに、年長組は幼稚園を離れ県外に一泊二日の合宿保育に行きます。今から楽しみにしている子もいれば、不安で不安で仕方がない子もいます。いろいろな気持ちで、その日を迎えますが、必ず、みんな楽しい思い出をつくって帰ります。そして、この経験をきっかけにグンと心を成長させるのです。どの子供にも楽しみになるように、これから当日までしっかり声をかけてやりたいと思っています。年長組の保護者の方に配付する合宿保育のプリントにも、子供達が有意義な経験ができるように、準備物や注意してほしい事、書類の提出等について細かく書いてお願いしてあります。実は、そのプリントの中に、以前はなくて、ここ数年になって加わった文章があります。それは、『必ずお子さんと一緒に、リュックサックのどの部分に何が入っているかを確認しながら入れてください。』という一文です。それは、ある年、現地について、お風呂に入る準備をする時の事でした。「きれいなタオルと、新しいパンツを出して、長袖長ズボンをここに置きましょう。」と、先生が声をかけると、たくさんの子供達が「ないない!」「これ~?」「入ってな~い。」「どれのこと~?」とまるで自分の荷物ではないかのように、困っていたのです。たったの一泊とは言え、親元から離れて過ごす我が子の不安な気持ちを考え、ちゃんと準備をしてやろうとあれこれ考えるのが親心──忘れ物があっては大変だと何度もプリントを読み返しながら、子供がいない所で、慎重に荷造りをされたのでしょう。そして、当日の朝「これが、持っていく荷物よ。」と渡されたリュックを背負って幼稚園に集合したのです。お家の方は、漏れなく完璧に準備したつもりでおられたのでしょうが、実は、自立しようとするいい意味での“覚悟”……子供達の“心の準備”ができていないまま出発したのです。準備する時に、「ここに入れようね。」「新しいパンツはここに入れてごらん。」「歯ブラシは…」「汚れた物は…」と子供と話をして、確認しながら準備ができていれば、きっと、現地で困る事は何もなかったはずなのです。そうした準備の時間が、子供をその気にさせ、楽しみになったり頑張っていく覚悟になったりするのだと思います。「お母さんがそう言っていたな。」「そうか!自分でなんでもしなきゃいけないんだな。」「なんだか、できそうな気がしてきたぞ。」と、その時点で、もう自立への道ができてくるのです。「いざ!!」とか「よし!!」という、まわしを締める気持ちになるのです。

準備物のリュックサックについては、『新しく購入される方は、お子さんと一緒に使い方を確認し、自分で使えるようにしてください。』という一文も加えてあります。自分の持ち物なのに、自分の物としてリュックサックや水筒等、扱い方がわからないで「せんせ~い!できん!」と困っている…そんな光景がよくあるのです。子供達は、みんな、自分の力をどこかでちょっぴり試してみたいという冒険心があります。何もかもをお父さんやお母さんがしてあげるのではなく、その気持ちを引き出してあげるのです。子供達を信じて、自分の事は自分で…自分の荷物は自分で…できるだけ頑張らせてください。そうすると、“心配するほどの事ではなかったな。結構うちの子頑張れるんだな。”と、お父さんやお母さんが我が子を発見する事ができると思います。お家の人達から離れ、できるだけ自分の事は自分でする──というチャンスがたくさんあるこの合宿保育は、年長組の子供達にとって、自分を開拓し自分の力を発見できるとても良い経験なのです。

年長組の子供達に限らず、年少組でも年中組でも、色々な場面でまわしを締め、自分を奮い立たせる場面はたくさんあります。例えば、先ず、朝、パジャマから制服に着替える事によって、「幼稚園に今日も行くぞ!」という気持ちに切り替わります。自分の荷物を自分で持って、またその気になります。大人だって、仕事着を着れば、仕事へのスイッチが入ります。自分の事が自分でできたり、自分でしたりする、この何でもない当たり前の事が、子供達の心をその気にさせるのです。「よし!!」という気持ちにさせる事ができるのです。子供達にしんどい思いで不安にさせないように……苦労させないようにと、大人が先回りをしてはいませんか?子供が自分で気持ちの切り替えやスイッチを入れられるように、ちょっとだけ、子供達にまわしをギュッと締める良いきっかけをいろいろな場面でつくってあげてみてください。

今日も、満3歳児クラスの子供が、体操服袋等の自分の荷物を地面スレスレに持って保育室に向かって行きます。「すご~い!頑張って持って行くんだね。かっこいい!」と声をかけると、とても得意気な顔をします。なんとも可愛くも頼もしい後ろ姿──。どんな小さな子でも、たったそれだけの事で、「いざ!!」というスイッチが入るのです。自分の力に自分自身で気が付いた瞬間でもあります。

見守る喜びをかみしめる(平成27年度6月)

幼稚園の花壇のアジサイが間もなくピンクや水色、紫に色づきます。夏の季節を迎えるまでのこの時季を春とは違う花が私達の目を楽しませてくれます。幼稚園では、来週からプールあそびが始まります。プールあそびをはじめ、心も身体も薄着になり幼稚園ならではの開放感をたっぷり味わえるあそびをたくさん経験させたいと思います。

さて、先週行った参観日では、お子さんの幼稚園での生活ぶりを楽しくご覧いただけたでしょうか?進級児のお家の方々は、昨年からの成長を感じてくださったり感心してくださったり新たな発見があったりして、関心深く観ていただけた事でしょう。また、新入児の保護者の方々は、お子さんよりもお家の方のほうが緊張しながらの参観だったかもしれませんね。お家では見られないお子さんの様子を微笑ましくご覧になっておられた姿が保育室全体をほのぼのとさせていました。

子供の成長をこの目でいつも確かめたいと思う親心は深い愛情のひとつです。これまで必死に育ててきた数年間の事を思い浮かべながら、成長を目の当たりにして喜びをかみしめるのです。どんな小さな成長も、親にとっては大きな喜びなのです。

先日、園長先生が「こんなラブレターをもらったのよ。」と私に一通の手紙を読ませてくださいました。それは、園長先生が、30年以上も前に担任をし、現在は三次市内の病院に看護師として勤める女の子からの手紙でした。そこに通院中の園長先生と再会し、しばらくして届いたものでした。園長先生は、まさかそこに勤務しているとは知らずの通院でしたが、その子は、園長先生に初診の日から気が付いていたようで、2度目の診察日に声をかけてくれたのだそうです。その時の事が手紙につづられていました。『初日に来院された時、私は、先生の書かれた問診票を見てすぐに先生だとわかりました。昔のまんまのかわいらしい文字にピンときました。昔いただいたお手紙やれんらく帳に書かれていた文字そのものでした。待合室を見渡して、先生を見つけ声をかけました。私の中の昔のままの先生で、懐かしく嬉しかったです。』……と。又『ずっと、会いたかった』…と。それから、その頃の思い出がたくさん書かれていました。先生の顔を一生懸命絵に描いた事や厳しく叱られ、友達に謝る事ができるまで先生に見守ってもらっていた事等、そして、結婚をして子供が生まれたという報告も…。その手紙に目を細めて何度も読み返す園長先生の横顔がとても幸せそうに見えました。そんな手紙をもらったことは勿論ですが、ずっと前に卒園した子が、こんなにも鮮明に自分の事…自分の文字まで覚えていてくれていた事や再会までの彼女の日々が幸せだった事を知り、大きな喜びを感じられたのだと思います。そして、実際に働く教え子の立派な姿に感動されたでしょう。

また先日、私の教え子が銀行の出張店舗窓口にいる事を知り、サプライズのつもりで働く姿を見に行きました。こっそりと様子をみると、お年寄りに笑顔で丁寧に通帳の説明をしている彼女のその姿はとても眩しいものでした。卒園児が、どこかで働いていると聞けば、行って見てみたいと思うし、結婚や出産のニュースを耳にすれば、「おめでとう」と声をかけたくなります。遠い所にいた子が三次に帰って来たと知れば「おかえり」と迎えてやりたいとも思います。悩んでいる、挫折を味わっていると知れば、助けてやりたい!できる事はないかと手段をさがします。卒園して見えていなかった空白の数年も、先生とその子達の間は、『思い出』で結ばれていると思っています。もはや、そこには、先生と園児との関係を超えて、お母さんの気持ちに近くなっているかもしれません。もちろん母親の気持ちとは到底同じもののはずはありませんが、子供の成長をいつまでも見守り、いつかは、この目でその成長ぶりを…幸せな姿を見たいという気持ちは教え子を思う親心です。何十年経っていても、私達は、会いたいと願っているし、祈っています。また、子供達も、先生を想い、再会をきっかけに幼稚園の頃を思い出して喜んでくれる事でその頃に育んだ愛情がその子の成長の一部分になってきたのだという事を感じると、ほんの少し誇らしくなるのです。そして、久しぶりに見る教え子の成長を喜ぶ私達の気持ち以上に、一年一年の…一日一日の…一瞬一瞬の子供の成長を一番近くで見守る事ができて、その時々に手をたたいて喜ぶ事ができる親の幸せははるかに大きいに違いありません。

私達大人はその喜びをかみしめながら子供達を見つめて行きたいものです。そして、子供達もまた、近くで見守ってくれる人、遠くで祈ってくれる人、今の成長を喜ぶ家族、遠い先の成長を期待してくれる人にいつでもどこでも、愛情に包まれながら生きていくのです。その人たちに、ほめられたり一緒に喜んでもらったりする事で、子供は、その愛情をしっかり感じながら、安心して成長できるのです。

そういえば、私のすぐそばにも可愛い教え子達がいるのでした。まさか同僚になろうとは……。三次中央幼稚園の先生として、日々、一生懸命に頑張り、成長しているその子達の姿を頼もしく見守る日々です。