今年の梅雨ほど雨の降らない年は私の記憶にはありません。26日の午後になって、久しぶりに10分足らず降りましたが、まさに焼け石に水でした。雨らしい雨が降ったのは、6月に入った間なしの一度きりです。そのため、幼稚園の園庭に昨年の秋に植えた樹木が気になり、時々、水をやっていたものの、少々の水やりでは表面が湿るだけで、地中深くには滲み込みません。トチの木とクルミの木がこの夏を持ちこたえることが出来るかどうかわからない状態になってきました。中門のところに2本ある「ハナミズキ」は10年前に植えたのにもかかわらず、一本が枯れてしまいました。
先生たちも子供たちと植えた芋畑の苗が心配で、暑い中を何度も水やりに行っています。幼稚園の「自然観察園」も昨年完成したばかりで、ほとんどの果樹や樹木、芝生は昨年の春と秋に植えたものなので、これも枯らしてはいけないと、出張で留守をした以外は、毎日水やりをしました。なんとか青い葉っぱを茂らせています。
その水やりを毎日した副産物が、野菜園のトマトです。雨がかかると病気になりやすいトマトの苗には根元だけに水やりをしますが、好天に恵まれ、2メートルくらいに伸び、トマトの実をいっぱい付けています。人の足よりも大きい見事な大根もたくさん収穫しました。
勢い余ったトマトの苗に押しやられたナスやキュウリの苗が、逆に、弱々しくさえ感じます。
子供たちの幼稚園でのあそびも、プールあそびだけではなく、園庭にある小川に入って水あそびをしたり、ホースを持ち出して、小山や園庭を水浸しにして、泥まみれになって遊んでいます。園庭中に子供たちの嬉々とした歓声が響き渡り、どの子も目を輝かせています。
こちらではほとんど雨が降らないのに、鹿児島県や東北・北陸地方では集中豪雨に見舞われています。幸いなことに、大きな災害にはつながっていませんが、こういう異常気象の時はどこでどんな災害に遭うかわかりません。
昔から、「災害は忘れた頃にやってくる」と言われていますが、こんなにも雨が降らないでいると、ある日突然、集中豪雨に見舞われそうな感じがしないでもありません。
現在の保護者の方がお生まれになった年の前後頃になると思いまが、幼稚園も33年前の昭和47年7月12日に大洪水に見舞われています。
その前日、子供たちが登園した間なしの頃から、集中豪雨に見舞われ、見る間に川は増水してきました。そのため、午前中で保育を取りやめ、急遽、帰宅させました。
当時、幼稚園の前身となった女学校の最後の学年の生徒がいました。一緒に寮生活をしていましたが、洪水で帰宅できなくなった幼稚園の先生と女学校の先生も寮に泊りこみとなりました。馬洗川に行ってみると、すごい勢いの濁流で、今にも水が堤防を越しそうになっています。すぐさま幼稚園に帰り、その女学校の寮生と先生、泊りこみとなった幼稚園の先生とで重要書類や貴重品を二階に運んでいました。食材の仕入れにも行かせました。プロパンガスの元栓も締めました。水もバケツからタライにいたるまで確保しておいたのです。万が一にと思って、ゴムボートにも空気を入れ二階に運んでおきました。
ところが、2時頃には雨は止み、澄み渡った夏空となりました。みんな必死で荷物を運んでいたので、しばらく休憩にして、もう一度、川の様子を見に行きました。あの、今にも堤防を越えそうだった濁流は、うそのように水が引き、河川敷にあった自動車教習所は浸水した後で、すでに、片付けや清掃をしていました。もう大丈夫だと、再び幼稚園に帰り、作業の中止を指示しました。
しかし、これが大きな見込み違いとなったのです。それでも、気掛かりなので、万が一のことを思って、私だけは玄関に布団を敷いてそこで寝ることにしたのです。玄関が床より低いため、一番早く水が来るからです。夜中の2時頃でしたか、バケツで水をかけるような勢いで再び雨が降り始めました。そして、玄関に水が押し寄せてきました。すぐさま、寮生や先生たちを起こして、残りの荷物を二階に上げようとしましたが、みんな怖がるので中止にして、全員、二階に避難しました。
突然、寮の裏の方から「シュー」という音がし始めました。プロパンガスの大きなボンベが浮き上がり、ホースが切れて、ガスが噴出しているのです。いったん閉めていたガスの元栓を、夕食を作るとき、開けて使用し、元栓がそのままになっていたのです。すぐさま泥水の中に飛び込み、泳いで行って元栓を締め、一本のボンベを部屋に持ち帰りました。
夜明けになり、薄明かりの中、外を見ると市街地一面、二階近くまで浸水しています。ゴムボートを中二階から水に浮かべ、市役所の建物の中に避難している人たちの様子も見てきました。ガスボンベを部屋に持ち込むことが出来たのと、食材と水は前日に確保していたので、全員の朝食や昼食は困ることなく、みんな揃って摂ることが出来たのです。後でわかったのですが、十日市町側の堤防が2箇所、決壊していたのです。
ここまで書いていたら、雨(28日)が降り始めました。ニュースを見ると、中越地方が洪水に見舞われています。人事とは思えません。
幼稚園が洪水に見舞われた昭和47年は、幼稚園を開園して2年目の年なのです。園舎もピアノも教材も全て新しいものばかりでした。園バスも完全に浸水しました。もう一度、施設設備のやり直しです。水害から33年が過ぎ、そのときの建物も全て建て替わりました。
実は私は、昭和20年にも水害にあっています。当時、2歳でしたから記憶にはありませんが、女学校の校庭に牛が流れてきたことや、寮生が使うカマスに入った塩がみな溶けてなくなっていたことなどの話を聞いていました。聞いていたことが、昭和47年の水害の時の食料や水を確保するなど、避難の時の知恵となっていたように思います。
空梅雨が、逆に、集中豪雨とならないようにと願うばかりです。
2005年7月1日 3:04 PM |
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幼稚園の自然観察園の巣箱にシジュウガラの巣を作り始めたことは先月の「つぶやき」で書きましたが、5月の大型連休の半ば頃から、巣箱に餌を運び始めたので、雛が生まれたことが分かりました。そして、親鳥の夫婦が交互に、毎日、毎日、青虫などの虫を口にくわえては運んで来ていました。生まれた日が特定できないのと、雛が生まれてから飛び立つまでに14日から21日くらいかかり、それぞれの巣によって幅があるということで、何時、巣立っていくのか分からないままに、まだかまだかと観察をしていました。
そして、5月24日の朝・・・親鳥夫婦がそろって巣箱の在る木の枝に止まっています。いつもは餌を運んでいる時、巣箱からすぐ飛び出し次の餌を探しに行くのに、「今朝」は違います。夫婦で枝に止まって、巣箱の中の様子を伺うように、「ピィ・ピィ」と鳴いています。「今日は巣立ちの日だ。」と、すぐに気がつきました。しばらく様子を見ていましたが、親鳥が巣箱に入っては出て来たり、枝に止まって鳴いたりしながら、雛に巣箱から出ておいでと誘っている様子がよく分かります。
ところが、私は、その日は朝から広島に出張でした。8時過ぎに家を出なければ会議に間に合いません。巣立つところをこの目で確認したかったのですが、それができず、「今日は小鳥の巣立ちの日だよ。」と、女房に伝えながら、後ろ髪を引かれるような思いで、出かけて行きました。会議が終わり、3時頃、三次に帰って来て、すぐに、巣箱の様子を見に行来ました。案の定、もう、巣箱には餌を運んでいません。それでも、抜け殻となった巣箱をじっと見つめていました。しばらくすると、すぐそばの山の茂みにシジュウガラが飛び込んで来たのが見えました。木々の間に目をやっていると‥‥それは親鳥でした。森の中で餌を探している様子です。姿を見つけることはできませんでしたが、近くの木陰に止まっている飛び立った雛鳥に、餌を与えているのだろうと思いながら、シジュウガラの巣作りから巣立ちまでの観察を終えました。
考えてみると、巣作りを始めてから雛が飛び立つまで8週間以上もかかっています。その間、あの小さな身体で、コケを運び、卵を抱いて、生まれた雛を献身的に育てている様子を見ながら、人間の母親もそうだけど、子育ては命がけなのだと改めて感じています。
子供達への巣箱の配布の後、樹木やベランダの手すりに巣箱を架けて、親鳥が出入りしたり卵を産んだりしているというお家もあるようです。その子供達から、その後の様子を聞くのを楽しみにしています。
話は変わって、小鳥の巣立ちの2日前の日曜日のことです。イタリアのミラノから帰って来た、私の娘と初孫に会いたいと、私の両親や叔母、従兄弟(いとこ)夫婦と姪(めい)、新婚ホヤホヤの甥(おい)の夫婦の8人が我が家にやって来ました。その中の従兄弟は、私より4歳下で、子供の頃は兄弟のように育っていて、夏になると毎日のように川に入って一緒に魚を捕っていた思い出があります。その従兄弟に、我家に来る前日に、鯉を捕るから大きい網と長靴を持ってくるようにと話しておきました。
次の日、その従兄弟が我が家に来るなり、「鯉はどこにいる?捕りに行こう。」と言います。魚捕りとなると本能的に血が騒ぐのです。そこで私は従兄弟に、「外交官の息子だった甥は、ほとんどを外国での生活をして育ったので、おそらく魚捕りをしたことがないはずだから、その子に、子供時代にできなかった経験をさせてやりたいので、彼が来るまで待ってやろう」と、話しました。
普通、鯉はそう簡単に捕れるものでは有りません。それなのに、なぜ鯉捕りに誘ったかと言うと、実は、私が毎日犬を連れて散歩をしているコースに小川があります。2週間ぐらい前、その小川の小さな橋を通っていた時、その小川から、「バシャ、バシャ」という水が跳ねる音が聞こえたのです。見ると、大きな黒鯉が5匹います。魚などいそうもなかった小川に、こんなにも大きな鯉がいるなど想像すらしていませんでしたが、「バシャ、バシャ」と音がした場所に葦が茂っていたところでしたので、おそらく、卵を産み付けていたのではないかと思いました。しかし、鯉が昇って来られるだけの水量がありません。その少しばかり深みとなっているところの上流、下流とも大きな鯉が泳ぐことのできる状況ではありません。おそらく、雨の日に水かさがあがった時に昇って来た鯉で、水が引いてからは、そこから移動ができなくなっていたのだと思いました。毎日覗いてみますが未だにその場所にいます。これなら完全に捕獲できると確信していたので鯉捕りに誘ったのです。
間なしに甥夫婦もやって来ました。昼食の後、早速、鯉を捕りに行きました。私の長靴はその甥に貸して、私は橋の上から指示することにしました。甥に鯉のいる場所を教えながら網ですくうように伝えるのですが、なんだかヘッピリ腰で、何回、網を入れても鯉に逃げられてしまいます。なかなか捕れないので、イライラしていた従兄弟が網を入れると、6、70センチもある、お腹に卵を持っているメスの大きな鯉が捕れました。2匹目も従兄弟がすくいました。経験の差です。今度はオスでした。私はその従兄弟に、もう一度、甥に挑戦させるようにと声をかけて、再び、甥が挑戦します。ついに捕れました。やはりオスでした。後、オスが2匹残っているのは分かっていましたが、甥に鯉を捕る経験をさせてやることができたので、私は満足でした。後の2匹の鯉は、そのまま、小川に残すことにしました。4匹のオスの鯉は、やはり、メスの産卵を追って小川を昇って来ていたようです。
この鯉をどうするのかと従兄弟が聞きますので、自称、料理人の私は、「鯉こくにして食べよう。」と言うと、いっしょに見に来ていた従兄弟と甥の奥さん達は、一斉に、「かわいそうです。食べられません。」と言います。鯉の美味しいのは油ののった12月から3月頃までなので、料理はしませんでした。早速、幼稚園の小川に放しました。大きな一匹のウシガエルとザリガニも一緒です。次の日、子供達が見つけて大喜びすることを期待しながら、大人になっての川遊びが終わりました。
2005年6月1日 2:50 PM |
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3月中旬に入って、三次市観光協会から、三次市の合併記念に製作して販売していた小鳥の巣箱を市内の幼稚園、保育園児全員に無料で配布されました。我が園でも全園児に配布した残りの5箱を幼稚園の自然観察園に、4月のはじめに設置しました。小鳥たちは、通常、2月から3月にかけて巣を構える場所を探し回るので、4月になってからの巣箱の設置では、もう間に合わないかと思いながら、5本の木の幹にそれぞれ設置しました。
ところが私の心配をよそに、2,3日すると、二つの巣箱にヤマガラとシジュウガラが出たり入ったりしています。もしかして巣を構えるかもしれないと、期待に胸を膨らませながら、毎日様子を窺っていました。
ちょうどその頃に、昨年の年度途中で広島に転園したこずえちゃんとそのお母さんが幼稚園を訪ねてきてくださったのです。私は留守をしていてお会いすることはできませんでしたが、なんと、私へのお土産といって、「小鳥の巣」という絵本を持ってきてくださっていたのです。しかも、新しい絵本を注文したら、1週間以上かかると本屋さんに言われ、それでは間に合わないと、こずえちゃんの持っていた「小鳥の巣」の絵本を、私に下さったのです。その日の夕方になって、職員室でこずえちゃんの担任だったあずさ先生から、こずえちゃんとお母さんが来園されたことと、「小鳥の巣」という絵本のお土産とその事情のことを聞き、その絵本を受けとりました。
次の日に、自然観察園の巣箱の様子を見ていると、一つの巣箱にシジュウガラシジュウカラが苔を一生懸命運んでいるではないですか。「やった!!」 と、舌打ちしながら、一人、喜んでいました。すぐに、こずえちゃんのお母さんに絵本のお礼とともに、シジュウガラが巣を作り始めたことをEメールで報告しました。
昨年度の「つぶやき」の中で、自然観察園が完成したことや、野鳥や小鳥の巣のことを書いたりしていましたが、こずえちゃんの在園中に、お母さんが私のところに会いにこられて、おじいちゃんが小鳥を大好で飼育しているという話や自分の子供の頃の小鳥についての思い出をいっぱい話されて帰られたことがあったのです。この度は、直接お会いできなかったことは残念でしたが、なんだか、こずえちゃんとそのお母さんが小鳥を運んできてくれたような不思議な感じがしました。
その巣箱を毎日観察しています。中が見えないので巣箱の中の様子はわかりませんが、時々、親鳥が穴からのぞいたりしていますので、営巣していることは確かです。親鳥が時々の穴からぞいたりするのを観察していると、少し離れた木陰の中にオスの親鳥が見張りをしているようで、私が近づいたりすると、「ツピー・ツピー・ツピー」と、少しかん高い声でさえずります。危険を知らせているのです。そうすると、中にいるメスの親鳥が穴から顔を出しては外の様子を伺っています。そして、危険を感じたときには、卵を抱いているはずのなに、それを置いて、巣箱から出てきて飛び立ちます。その様子を毎日、観察しながら楽しんでいます。もう、そろそろ雛が生まれてもいい頃なのですが、まだ、餌を運んできている気配がないので、もう少しの辛抱と思って、雛の誕生を楽しみに待っています。
4月8日の始業式の日、子供たちにシジュウガラが巣作りを始めて、苔をお布団にするため、くちばしに加えて運んでいることを話しました。
そのときの子供たちは、目を輝かせて聞いていました。そこで、みんなが持って帰った巣箱を木にかけた人はいますかと聞きましたが、10数人しかいませんでした。少しばかり残念に思いましたが、その10数人の親御さんは、子供と一緒に巣箱を作って、木にかけて、小鳥がやってきて巣を作るのを、今か今かと、親子で楽しみに待たれているのではと想像しただけでほほえましく思いました。せっかく巣箱を設置しても、必ずしも、巣づいてくれるとは限りません。それでも、親子一緒に巣箱を作ったり小鳥がやってきたりするのを待っている気持ちは、親子で共有でき、自然に対する興味や好奇心のみならず、親子の共通体験として、心の絆が育まれてきます。今年、残念ながら巣箱をかけることができなかった方は、是非とも、来春には試みてください。きっと、親子での素敵な時間が持てるはずです。
自然観察園のサクラの花も散って、今は少しばかりですが、シバザクラが満開です。このシバザクラは、昨年の7月に、うめ組のまゆみちゃん、もも組のひろひさくんのお母さんが、担任の晴子先生と500本の苗を数時間かけて、苗床に挿し芽をしてくれたものです。500本も挿し芽をしてくれたのに、少しばかり満開というのは、何故かと言うと、私が大失態をしたからなのです。それは、毎朝、水やりをしなければならないのに、まだ、水やりの習慣がついていないときに、忙しさにかまけて、1週間くらい、水やりを忘れていたのです。
それに気づいて、急いで水やりをしましたが、結局、100本弱しか助かりませんでした。あんなに時間をかけて挿し芽をしてもらったのにと、申し訳ない気持ちになりながら、秋に移植しました。今、少しですが、きれいに咲いています。夏になったら、今度は私が苗を採取して挿し芽にしようと思っています。4月21日には年中組の子供たちが自然観察園に遊びに来てくれました。まだ半日保育なので、ゆっくりとは遊ぶことはできませんでしたが、これから、グミやブルーベリー、イチジク、柿に栗と、いろいろな木の実がなってくるころには、楽しみも倍増してくるはずです。今は私だけが、小鳥を観察したり野菜を作ったりして、楽しんでいるのかもしれません。旬の竹の子もたくさん頂きました。竹の子の料理もいっぱい作ったり、ヨモギを摘んでヨモギご飯にして食べたりして春を楽しんでいます。
2005年5月1日 11:27 AM |
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1月の講演会後、年長組のあるお母さんからメールを戴きました。
《初めてメールを差し上げます。私はさくら組でお世話になっている娘の母です。 先日の講演会は堅苦しくなく、分かりやすくマナーを教えていただき大変勉強になりました。また、お茶会の様子もよく分かり、いつも懐紙を大事そうにポケットに入れていたのは(残しておいて欲しいみたいですが)、そんなエピソードがあったのだと納得させられました。最近は自分からは幼稚園の様子をしゃべってもこちらがあえて聞くとあまりしゃべりたがらなかったりするので、本当にお茶会の様子を覗いてみたいです。この前もお茶会の後、「今日は大福茶を飲んで、中には梅干しと黒豆と山椒(これはなかなか思い出せなくて後から追加で言っていました)が入っていて、お菓子は和三盆」と、得意そうに父親にも教えていました。「わぁ本格的なことをするのだ!!」とびっくりしましたが、また思いやりの心まで教えて頂いて感謝しています。数ヶ月前から何か物を渡した後とか、その都度、「ありがとう」が言えるようになったのも、やたらとお手伝いをしようとしていたのも、そうだったのかと思いました。最後に副会長さんが、「これで今年度のPTA主催の行事も終わりです。」と言われ、幼稚園生活もあと数ヶ月だけなのだと思うと残念でまた寂しい感じがしました。残り少ない幼稚園生活をしっかり楽しんで欲しいものです。》
子供って、本当にいろいろな経験を積み、自信をつけながら成長していくのですね。自信をつけたといえば、2月20日の参観日後に年長組のお母さんから、こんなメールを戴きました。
《先日の参観日に跳び箱を跳べない娘は、居残り特訓のように最後まで残って練習していました。いつもはとても活発な子ですが、こと運動となると、「こわーい!」が先に立ってしまうようで、鉄棒の逆上がりもスイミングも、ターザンごっこも友達や先生に習いながら、やっと一人前にできるようになりました。案の定、跳び箱も小さな跳び箱を跳べたのがやっとでした。参観日のがんばりに、さすがに私もいとおしく思い、馬跳びで特訓しました。30分くらいしたのですが、恐々していたり、途中では涙も浮かんだり、それでもやめるとも言わず、懸命に走ってきました。そうすると、だんだん跳べるようになり、「かあさん、勇気を出して頑張れば大丈夫だね。」と、今までの涙顔とは全く違う、きらきらした目をして言いました。私から見ても、とてもお世辞にも大丈夫とは思えない状況でしたが、本人は何かつかんだように自信をつけていました。そうして、今日、お迎えに行くなり「かあさん!跳び箱五段跳べたよ。」とうれしそうに教えてくれました。ふたりで手を取り合って、喜び、涙しました。我が子ながら、すごい頑張りと努力で、自分でつかんだ喜びをしっかりと、感じてくれたことほんとうにすごい! できたことより、その努力したことにすばらしさを感じうれしく思いました。中央幼稚園の先生方のいろんなことに挑戦させてくださったこと、失敗してもしっかり応援し導いてくださったこと、今更ながら中央幼稚園に入れてよかったとつくづく感じております。ありがとうございます。またひとつ娘の世界が広がったように思います。こんな経験が彼女にとって、きっと自信につながっていくんですね。残りわずかな幼稚園生活。いっぱい、いっぱい楽しんでほしいと思っています。ほんとうにありがとうございました。》
参観日の二日後に、彼女が跳び箱を跳んで見せたとき、クラスの友達も担任もすごく喜び、他のクラスの先生や園長先生まで呼んできて、みんなで喜び合うことができたのです。お母さんとその子の努力のおかげなのです。私たちも感動を戴きました。
これで、本年度最後の参観日も終わりました。参観日当日の私は、各クラスを覗き見する程度でしたので、活動の内容そのものを最初から最後まで通してみることができませんでした。それでも、どのクラスも劇あそび等をしていて、楽しそうに過ごしている様子はしっかりと伺えました。お父さんお母さんたちも、1学期の子供たちの様子とはずいぶんと成長した姿をご覧になられたことと思います。楽しそうに参観されていた雰囲気でしたので、きっと、子供たちがお家に帰ってから、しっかりと褒めて戴いたのではないかと思います。おかげさまで、その後の子供たちの活動にも自信に満ちた様子をはっきりと見ることができます。園庭で遊ぶときも保育室でのやり取りも生き生きとしています。私も年長組のクラスに行ったとき、子供たちに、「みんなの劇あそびも観たかったなぁ。」と言うと、「うん、また見せてあげるよ。」と言って、「でも、1年生になっていたらごめんね。」と言います。そうなのです。子供たちの心は、もう、小学校に入学する期待感でいっぱいなのです。それでも、年長組の子供たちだけあって、別れ別れになることもしっかり分かっていて、残された幼稚園での生活を、本当に仲良く、先生や友達との関わりをとても大切にしながら過ごしています。強くて優しい子供に育ってくれたと思っています。こんなメールも戴きました。
《今月(2月)の白髪先生のつぶやきを読んで大変反省させられました。森本さんが稲を育てていたのはテレビのビデオレターを見て凄いなあと感心してしまいましたが、同じように幼稚園から収穫した稲を頂いてきて家ではどうしたら良いか分からんねと飾り物にしてしまいましたが、子供と一緒にもうすこし考えてみれば良かったと思いました。しかし、すごいアイディアですね。我が家も今年は挑戦してみようかしら。長くなりましたが、今回メールを送った理由の一つに、娘はここ数ヶ月「青空キャンパス来ないかなぁ」と、朝と夕方と毎日郵便受けを覗いてはしょんぼりしています。と、言うのも絵本で、「信じている子には青空キャンパスと書いた雲や虹が出てくるという物が送ってくる」と書いてあったのです。それ以来、いつ来るかいつ来るかと楽しみにしているようで・・・ クリスマスの時もサンタさんにお礼と魔法セットも下さいという手紙を書いていてこれは私が魔法セットは10才にならないとあげられないと返事を書いて少しは納得したみたいなのですがお母さんの字に似てると少し…?…の、ようです。パソコンで書けば良かったのでしょうが今回はどうしたものかと考えています。何か良いアイディアはないでしょうか》
返事には、「えんちょうのえほんこうざ」の中にある、サンタさんが抜け出したときの、「サンタクロースの部屋」のことを書きました。こんなに素敵に育ってくれた子供たちが、もうすぐ卒園して行きます。いろいろと学校での殺傷事件が続く昨今ですが、巣立っていく子供たちの無事を願うばかりです
2005年3月1日 3:14 PM |
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1月23日の参観日に講演会がありました。講師に茶道の上田宗箇流(家元は広島市)の坂部由香子先生をお迎えして、「暮らしに生かせる楽しいマナー講座」という演題でお話を聴かせて戴きましたが、ホールに座りきれないほどの沢山の保護者の方々に聴いて戴き、ありがとうございました。
講演が始まるのが少しずれ、講演時間が予定より少なくなったため、幼稚園の先生たちのお茶の練習の話が出てきませんでしたので、私に関ることだけをここで紹介します。
私は参加していませんでしたが、昨年末の12月27日に行われた、平成16年の納茶会での話題です。練習が終って坂部先生が、「1月7日の新年の練習初めには、お茶漬け懐石をしましょう。」と言われたのです。抹茶を使ってのお茶漬けです。その時に、「お茶漬けに添える料理には、酢の物と和え物を主婦の先生たちが作ってください。若い先生はそれを見て料理の勉強をしてください。」というようなことを話されたそうです。そのことを聞いた主婦の先生たちは、「ここには主婦は誰一人いません。」と、楽しい話題が続いていました。「この幼稚園で主婦(夫)をしているのは理事長先生しかいらっしゃいません。」ということになったらしく、私にお鉢が回ってきました。私も快く引き受けました。
1月7日のお茶漬け懐石は午前11時から始まります。そこで朝9時半から料理を始め、14人分の2品を作るのに1時間をかけて作りました。その、出来上がった料理を先生たちに手渡して、私はそのまま県庁に知事や議長に新年の挨拶をするために出かけましたので、残念ながら、そのお茶漬け懐石には参加できませんでした。
その時、カブのお漬物を、もう1品添えたのです。
そのお漬物は、実は私が漬けたものではありません。私が小学校4年生の時に転入してきた女の子が、中学1年生の夏休みに、お父さんの突然の転勤で転校してしまい、それ以来、所在が分からなくなっていました。その子が歳をとるにつれて、やはり、懐かしくなって、ご主人と一緒に尋ねてきてくれたのです。岐阜市に住んでいました。尋ねて来てくれた、その1年後の還暦を迎えた年、中学の時のクラス会にも初めて参加してくれました。
その彼女が、自分で漬けた漬物を、3年前から、年末になると私のところに送ってきてくれています。そのお漬物を事情は話さないで一緒に添えておいたのです。坂部先生も幼稚園の先生たちも、料理もお漬物も、すごく美味しかったと言ってくれているので、そのまま素直に受け止めています。
講演後、講師の坂部先生と一緒に昼食に出かけました。食事をしながら、楽しいひと時を過ごすことができました。講演で度々お話された、「お茶は思いやりの気持ちを学ぶ」という、その日の講演内容から話が弾みました。その時に、以前、坂部先生が大病を患われた時に、周りの人たちのいたわりや思いやりの心をいっぱい感じられたお話も伺いました。その時に、何かの雑誌で読んだと言われる、「大病を乗り越えると、一国の大統領を超える勉強ができる。」というような言葉を紹介してもらいました。おそらく、死に直面するかもしれないような大病を患うと、自分を問い直し、自分の生き方を改めて考え直すことになるのではないかと思いながら聞きました。そして、自分は自分の力だけで生きているのではなく、宇宙の摂理や周りの人々から生かされていることに気付き、一層、人に対する思いやりも深いものとなっていくのだと思います。
生き方も、一日一日を大切にしようという気持ちも強くなってくると言います。講演後の坂部先生との食事の席に私の女房も同席していました。女房も10年前から大病を患っています。「一日一日を、仕事が出来るのは今日が最後かもしれない」と、体力に合わせて仕事をしていますが、すごく充実した10年だったと言います。
ところが、私と言えば、ほとんど病気らしい病気はしたことがなく、どうも、病人の気持ちを理解できない人のようで、苦しんでいる時にどう接していいのか分からないのです。そのことで、相手に私は優しくないという印象を与えてしまいます。
「この幼稚園で主婦(夫)をしているのは理事長先生しかいません。」と、先生たちが言ったのは、私が毎日、家で料理をしていることを知っているからです。10年前に女房が1ヶ月入院したことがあって、退院してからの様子を見ていると、私の朝ごはんを作ろうと、まだそんなに体調がよくないのにも関らず、無理をして起きようとしていたことに気付いたのです。「朝ごはんぐらい自分で作るからいいよ。」と言って、朝食を作り始めたのが、主夫になる始まりでした。作ってみると楽しいのです。それ以来、料理に夢中になっていったのです。途中で、何でこんなことをしているのだろうと苦痛に感じ出したときがありましたが、その時、「料理を楽しもう。」と、気持ちを入れ替えて以来、何の苦痛も感じなくなってきました。この10年、朝食も夕食もずっと作っています。時には、お弁当も作って持って行きます。以前にも書いたのではと思いますが、料理を始めてすぐに気付いたのが、「料理は愛情」と言うことです。料理を作っている時の自分は、相手にいかに美味しいものを食べさせてあげようかということばかり考えていることに気付いたからです。その気持ちを忘れたら、途端に料理もまずいものになってしまいます。
話が自分のことになってしまいました。話を戻します。
子供たちに、「思いやりのある子になりましょう。」と言って育てても、思いやりのある子には育ちません。「思いやり」とは、相手の気持ちになって、相手をいたわる、自分自身の心の働きだと思いますので、言葉では言い伝えることは出来ません。子供たちが、思いやりの気持ちを持つことが出来るようになるには、周りからしっかり愛され、周りからいたわりや思いやりを、いっぱい、いっぱい受けることによって育まれていくのです。お父さんお母さんの気持ちの在り様次第なのです。
2005年2月1日 3:01 PM |
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