今年は新入園児に泣く子がほとんどいなく、泣いても、お母さんとの別れ際に泣くぐらいで、それも、2,3日で終わってしまいました。いつもなら、主任や園長が、泣いている子を、おんぶしたり抱っこしたりと、手助けのための出番があるのですが、今年はそれもなく、少々、拍子抜けしています。新年度を迎え、3週間が経ちました。新しく入園してきた子供たちも、幼稚園の様子や時間の流れも理解してきたようで、ずいぶんと落ち着いてきています。
そんな頃の園庭では、年少組の担任が「あぁぶくたった♪ にえたった♪ にえたかどうかたべてみよう♪」と、伝承あそびを教えながら遊んでいます。ほとんどの新入園児は、そのあそびをしたことがありませんから、あそびを伝える方も大変です。その年少組の子供たちの周りに、いつのまにか年中、年長の子供たちが集まってきて、その様子をニコニコしながら見ているのです。それに気付いた先生が、「さくらぐみさんも見ていないで、中に入って一緒にやろうよ」という呼びかけで、周りで見ていた子供たちも一緒に遊び始めました。それも、ただ一緒に遊ぶのではなく、年少組の子供たちに教えながら遊んでくれています。そのあそびの途中、小川でズボンを濡らした子の着替えをしてやるため、先生がその場をしばらく離れました。それでも、そのあそびが中断することもなく、年少児の手を取ったりしながら、年中、年長の子が、先生役のように一生懸命続けています。そのほほえましい様子を見ていて、子供たちの関わりのすばらしさに、あらためて感心したのでした。
しばらくして、帰り支度をしている保育室をまわってみていました。年長組のクラスに入って、先生と子供たちのやりとりを聞いていましたが、担任が、「今日、朝ご飯をちゃんと食べてきた人?」と聞くと、ほとんどの子供たちは「食べた」といっています。「じゃ、おみそ汁だった人?」と聞くと、5人ほどいました。「じゃ、パンだった人?」と聞くと、12人です。「他の人は?」と再度聞くと、なんと、「ジュースだけ」「お菓子を食べた」「なんにも食べていない」という子が4、5人いるのです。朝食での、パンかご飯かの比率はどうであれ、ジュースだけとか、お菓子だけの子や食べていない子がいるのにはショックでした。
それを聞いていて、「今朝は、前の日になにかあって、きっと時間までに起きれなかったのだろう」と思ったのです。しかし、担任に訊いてみると、ほとんど毎日、同じ子がそうだというのです。
近年、大人の生活も夜型になってきたといわれるように、就寝時間がずいぶんと遅くなってきています。それに合わせて、子供も9時、10時まで起きていても平気な子が多いのです。遅くまで起きていると、当然、朝起きるのが遅くなります。すると、通園バスに間に合わなくなるので大慌てです。お母さんの「早くしなさい!」「早く!早く!」「急いで!」といっている光景が目に浮かびます。そういえば、時々バスの運転をするときに、口にご飯をほおばったままバスに乗る子がいると思えば、おにぎりを食べながら、慌ててバスのところまでかけよって来ている子を見かけることがあります。
幼児は10時間の睡眠時間が必要といわれています。8時に寝れば6時の起床です。10時に寝れば8時に起きることになります。ところが、8時に起きたのでは幼稚園に間に合いませんから、もっと前に、無理やりに起こされることになります。無理やり起きていますから、すっきりと目が覚めません。当然、ぐずぐずすることになります。お腹もすいてきません。朝食をとらないと、お昼にはお腹がすごくすくだろうと思いがちですが、全く逆で、食欲も衰えてきます。朝、ちゃんと食事をとると、お昼にはきちんとお腹がすいてくるのです。
子供の生活には、規則正しいリズムを作ってやることが、とても大切なことなのです。生活のリズムがルーズなままに育つと、他のことまでルーズな子となり、小学生、中学生になっても生活のリズムが確保できませんから、意欲や体力、ましてや学力もつかないし、荒れる原因にもなります。昔から、「子供は早寝早起き」といわれてきたのも、今でもとても大切なことなのです。幼稚園でも、ちゃんと朝食をとっていない子は、やはり、元気がありません。
お母さんも、朝早く起きて、毎日、朝食の準備をするのも大変かもしれません。それでも、かわいい我が子のためにも、家族で規則正しい生活のリズムを取りながら、朝食も余裕を持って食べる習慣をつけて欲しいのです。お母さんが、余裕のある笑顔で送り出してやることが、今日一日の幸せの出発点なのです。
5月からは、午後の保育も始まります。お弁当と給食が交互になります。幼稚園でお弁当を食べているときの様子を見ていても、「お母さんが作ってくれた」といいながら食べている顔は、とても幸せそうな顔をしています。お弁当作りは大変だなんて思わないで、お母さんの作ったお弁当を、子供がうれしそうに食べている様子を想像しながら作ってください。お弁当作りもとても楽しくなります。
きっと、そのことも、お母さんの幸せと感じてもらえると思います。
2001年5月4日 3:16 PM |
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つい先日のことです。2学期から、1便増えた別コースの園バスを、私が運転していますが、その日は、出版社に提出する急ぎの原稿があって、子供たちをバスで送った帰りに郵便局に立ち寄ろうと、バスの出発時間ぎりぎりまで、コピーをして封筒に入れ、その原稿を送る準備をしていました。その間、そのバスに乗る6人の園児が、事務室でイスに座って待ってくれていました。年長組の男の子が、「園長先生は仕事が忙しいんだ」といいながら、私のしていることをみんなで眺めていました。「さ、出来た。待たせてごめんね。バスに乗るよ」と言うやいなや、年少の女の子が、私のくつをきれいにそろえて、さっと私の足下に置いてくれたのです。「Yちゃんありがとう。でもすごい!園長先生の靴をそろえてくれたんだもの。ありがとうね」と、私のうれしい気持ちを伝えました。そばにいた美智子先生も、「見~ちゃった。Yちゃんのすごく良いとこ見~ちゃった。」とほめてくれています。バスを運転しながら、「きっと、お家でお母さんがいつもそうされているのだろう」と、心地よい気持ちで、お家での様子を想像していました。
1月の講演会の時に、講師の永見勝徳先生が「心を育む」という演題で、「親が育たなければ子供も育たない」と、くつをそろえる例も出して、「親がしなければ子供はしない。親がするとおりに子供はする」と話されていましたが、まさにそのとおりの良い光景でした。やはり、挨拶もそのとおりです。
「おはようございます」、「こんにちは」、「失礼します」、「さようなら」、あるいは、「ありがとう」、「ごめんなさい」とちゃんと言えるのも、ふだんの生活の中で、周りの大人がいつも言っているから出来るのです。お客さんが来られて、慌てて、「ちゃんと挨拶をしなさい」と言っても、うまくはいきません。片付けや掃除も同じことです。片づけなさいと口うるさく言ってもなかなか言うことをきいてくれません。親の片づけている姿や子供と一緒に片づけることで学ぶのです。
よく見る光景に、ポイ捨てが有ります。皆さんも見られた経験が度々あると思いますが、車の中から、たばこや空き缶を捨てる行為です。車の中に灰皿があるのに、自分の車の灰皿を汚さないために、わざわざ窓を開けて道路に捨てるのです。最近の若者だけかと思っていたら、結構、年輩のおばさんまでが、空き缶を投げ捨てている光景を見たことがあります。もっと信じられないのが、自分の子供が車に同乗しているのに、子供の見ている目の前で、空き缶を捨てる親がいるのです。その子がどんな人間に育っていくかは、容易に想像できます。Yちゃんの心地よい話から、説教ぽい話になってしまいました。とにかく、子供は親(大人)の姿からいろいろなことを学ぶのです。
このころになると、急に温かくなり、木の芽の息吹を感じます。子供たちも、ぽかぽか陽気の中で、園庭で遊んでいる姿も一段と活発になってきています。その子供たちの遊んでいる姿を見ると、それぞれが友だちと深く関わりながら、いろいろなところでいろいろな遊びをしています。その楽しそうな様子を見ていて、とてもほほえましく感じます。本当に仲良しなのです。この子たちもみんな、それぞれの家庭で愛情をいっぱいに受けながら育っているのだなと感じずにはおられません。みんな優しいのです。
ホールでは、卒園式の練習が始まりました。そこに足を運ぶのは気が重くなります。この子たちはもうすぐ卒園をしていくのだと、否応なしに実感するからです。練習の様子を子供たちの後ろから見ていると、みんなそれぞれに成長して、ずいぶんとしっかりしてきたなと感じます。練習が終わって、お部屋に帰って行く子供たちが、「園長先生、またサッカーをしよう」と声をかけてくれます。なんだか、寂しそうな園長の気持ちを元気づけてやろうと、誘ってくれているような気がして、子供たちの心の暖かさに胸が詰まります。この子たちが生まれて、わずか6年しか経っていないのに、こんなにも心豊かに育ってくれていることをうれしく思います。
ホールからの帰り、うめ組さんの部屋を除くと、2クラス一緒になって、お誕生会のお菓子を食べています。部屋に入ると、「手品して!」とすぐさま声をかけてきます。「そうだね。長い間してなかったから、じゃあ、今から手品をするからしっかり見ていてよ」と数種類の手品を始めました。それを見ている子供たちは、本当に不思議そうに、驚いている様子がありありとしていました。その時の目がランランと輝いているのです。特に、最近転入してきた女の子は、私の手品を初めて見るのです。目を輝かせたまま、身体が固まっています。
子供たちの目の輝きを見て、思い出したことがあります。数年前、福島県から10人ぐらいの幼稚園の園長先生たちが見学に来られたことがあります。見学の後の、懇談の中で、「ここの幼稚園の子はみんな目が輝いている」と、開口一番に言われたことがあります。どこの子も目を輝かせているとばかり思っていた私には驚きの言葉でしたが、子供自ら興味を持ってすることには目を輝かせるのです
2001年3月6日 11:37 AM |
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近年、近くの空き地や野原で遊ぶ子供たち(小学生)の声を耳にすることは、ほとんどなくなったように思います。それも、10年以上、いや、すでに20年前頃から遊び声を聞くことが少なくなってきたような気がします。「ハーメルンの笛吹」と言う童話で、笛を吹く男に、町中の子供たちがついて行き、山の中の洞穴に、子供たち全員の姿が突然に消えて失踪する場面がありますが、それを思い出すほど、町の中から子供たちの遊ぶ姿が消えてしまっているのです。
昭和30年代後半から40年代にかけて、テレビが一般家庭に普及してきた頃から、子供が外で遊ばなくなってきたと言われ始めていました。近年では、「友だちと遊びたかったら学習塾に行きなさい」と言われるくらい、外では遊んでいないのです。学習塾に通う児童が増えたことや、テレビアニメだけではなく、20年くらい前より、ファミコンゲームが子供たちの遊びの中に急速に入り込み、外での遊びを奪ってしまったのでしょう。
1999年の「小学生白書」(学研)によると、最近の子供たちの「最大の関心事」と「よくやる遊び」は、男子では、1年生から6年生までのすべての学年の子が、テレビゲームを1位にあげています。そして、「今欲しいもの」では、男子が、1位・ゲームソフト、2位・パソコン、女子は、1位・パソコン、2位・ゲームソフトとなっています。それほどまでに子供の生活の中にテレビゲームやパソコンが入り込んでいるのです。学校の教室にもパソコンがずいぶんと増えてきました。教育目的のためなのですが、自在に使えるようになり、子供たちの生活の中にますます入り込むことは間違いありません。私たち大人は、「子供の遊び」と言うとき、空き地や広場、川や野原で遊んでいる姿を思い浮かべる人の方が、大半を占めると思います。今の子供たちが大人になって、「子供の遊び」を思い起こすときには、おそらく、テレビゲームやパソコンで遊んでいる姿を思い浮かべるのでしょう。テレビ放送の制作者側は、子供たちの関心を引きつけるために、子供の成長に配慮を欠いた、あの手この手の番組を制作しています。私たち大人は、子供の成長にとって、友だちと一緒になって外で楽しく遊んでいる姿を、好ましい姿として受け止めることができますが、今の子供たちが大人になったとき、子供にとって好ましい遊びとはどのようなものを思い浮かべるのでしょう。
テレビゲームをしたり、テレビ漫画を見ることがすべて悪いとは言いませんが、問題は、テレビゲームやパソコンが、子供の生活の中にしめる割合が、余りにも大きすぎるのではないでしょうか。テレビゲーム等で何時間も遊んでいるのをもっと制限することを考えてやらないと、人間として成長していくうえで、何か大きな障害を起こしてしまう気がしてなりません。
ずっと以前、25年ぐらい前でしょうか、家の近くの、電柱のトランスに落雷があったときに、逆電圧とかで、我が家のテレビが壊れ、修理に1ヶ月余りもかかったことがありました。そのとき、夫婦での会話がずいぶんと増えたのです。テレビが故障したことで夫婦での会話がいかにテレビに奪われていたかに気付かされたのです。
そのときに、会話が増えたことで、結婚しているのだという実感を、あらためて持ったのです。テレビのない楽しい生活を今でもはっきりと記憶しています。テレビがなかったら、家族での会話がいっぱいいっぱい増えるのです。
子供たちがテレビを見たりゲームばかりをしているからと、「テレビを見るのはやめなさい」、「ゲームばかりしていないで……」と、いくら注意してもやめてくれません。それよりも、家族で話し合って、週に1日で充分だから、「テレビのない日」をつくってみたらいかがでしょう。家族全員が見ないのです。テレビをまる1日見ないことに決めるには、親の方に相当の決断がいるかもしれません。でも、一度やってみてください。最初はとまどっていても、テレビがないことで、家族での会話がいっぱい増えます。子供たちの遊びが変わってきて、いろいろと工夫した遊びが見られるようになってきます。親の方も心のゆとりができて、子供への接し方も穏やかになってきます。親にも子供にも時間と心の余裕がずいぶんとできてくるのです。
そのことで、落ち着いて絵本を読んでやったりお話をしてやることも増えてきます。家事の手伝いや親子で一緒に遊ぶ機会も多くなって、家族との関わりがとても深くなってきますから、子供は親の愛情をしっかりと感じながら育ってくれるはずです。
子供たちだけではなく、お父さんお母さんも、テレビのない生活の楽しさや豊かさを知ったら、「テレビのない日」でなくても、余りスイッチを入れなくなるし、大切な話がある時や、何か他のことをしようとする時には、子供自らスイッチを切ろうとします。先に書いた、「ハーメルンの笛吹」はドイツの伝承話で、グリム兄弟が集めた「伝説集」にも収録されています。当時の、子供を粗末にしたり、おごりや欺瞞に満ちた大人たちへの警告の伝承でもあったのだと思います。私たちの大切な子供を心豊かに育てるためにも、少しばかり物の不足する生活が必要なのかもしれません。
2001年2月6日 11:16 AM |
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以前にツバメのことを書きました。今年のツバメも、カラスに襲われることから守ってやりながら、無事巣立ちました。幼稚園の車庫の上に巣を掛けるツバメは、毎年、2回ほどひなを産み、今年は7羽ほど育ちました。秋も深まり、だんだんと寒くなってきたころ、数日、電線にいっぱいツバメが集まっていましたが、間なしに、南の国に向けて一斉に飛び立ちました。ところが、12月の始め、夜明けには氷点下2度にもなろうとしていた頃の夕方、ツバメ2羽が車庫の上の巣から飛び出し、電線にとまったではないですか。
「ツバメがいる!!」と、女房の叫び声に、そこに居合わせたクリーニング屋さんは、「違いますよ、ほかの鳥ですよ」といいながら、目を凝らして見ていて、「本当にツバメです!」と驚いています。
そういえば、10月初旬頃から、自家用車の上にツバメの巣から、泥や糞が落ちていましたが、ツバメの巣にスズメでも入って利用しているのだろうと、気にも留めないでいたのですが、なんと越冬ツバメだったのです。こんな寒いところで越冬するとは夢にも思っていませんでしたので、ツバメと知った途端、無事冬が越せるかどうか心配になってきました。寒くなれば虫だっていなくなるし、雪が降ればどうするのだろうと、いろいろと心配になってくるのです。実際、落ちた糞を見れば、夏の糞のように中身がありません。水っぽい薄い糞です。虫がなかなか見つからず、お腹いっぱいに食べられないのかもしれません。「家の中に入れることはできないか」、「小鳥やさんから虫を買ってきて車の上に置いてやったらどうか」と女房も心配しています。
しかし、越冬ツバメを実際見たのは初めてでしたので、どうしたものだろうと思案に暮れていました。そこで思いついたのが、インターネットで「越冬ツバメ」を検索してみることでした。すぐに出てきました。「越冬ツバメの観察記録」という、日本野鳥の会・熊本県支部の三田長久さんの、熊本県白川市での越冬ツバメの観察です。12月の初めには250羽位見られていたのが12月末には数羽しか見られないとの記録があります。
早速、メールを入れました。その日のうちに三田さんからの返事が返ってきました。「伊達さんへ:熊本も冬の朝は氷点下2、3度ぐらいにはなりますので、越冬ツバメのねぐらでは何羽かは落鳥しています。冬でも昼間はあたたかくなるので、虫が飛ぶらしく、川面で飛び回って採餌しています。自然に生きるツバメは、自分が選んだ環境で生き延びられれば子孫を残せるということだと思います。ただ見守ってあげるしかないと私は思います。三田」(原文のまま)
やはりさすがと思いました。「自然に生きるツバメは、自分が選んだ環境で生き延びられれば子孫を残せるということだと思います。ただ見守ってあげるしかないと私は思います。」という言葉に、偉く納得したのです。これが自然の摂理なのです。自然界の動物は、いろいろな天敵や日照り、暴風雨等の自然の厳しさや様々な困難に出会い、その中で生き残ったものだけが子孫を残していくのです。それは、強い子孫を残すことにつながるのです。強い動物は数少なくしか子供を生みません。弱い動物は数で勝負します。そうやって、自然の均衡がとれているのです。三次での越冬ツバメは、いつまでも暑く、冬の近づいたことを敏感に感じられなかった、今年の異常気象が原因しているのかもしれません。
21世紀がスタートしました。先のことから考えると、20世紀はその自然の均衡を破壊してしまった世紀でもあったように思います。特に、後半の50年はその顕著たるものでした。戦争はともかくも、農薬や排気ガス、生活排水や工場排水、ダム建設や河川改修、港湾での建設工事、工業や農業のための海岸線や湖の埋め立て、住宅や工場団地建設のための山を削っての団地造成、埋め立てゴミやダイオキシン等々、数えればきりがありませんが、これらのすべては、人間の生活や経済の向上発展、災害防止と財産保持等のためでした。
このように、限りなく自然を破壊している人間の姿は、地球の自然回復力の限界を超えてしまい、人間や動植物が地球に存在することすら危ぶまれる始末です。オーストラリアのように、オゾン層の破壊で強い紫外線のため、子供たちは、防御服やサングラスをかけて生活しなければならない国も出始めました。南極や北極の氷も溶け始めて、すでに、南洋諸島の島では海岸線にそった低地が、だんだんと海の中となり始めたのです。自然の均衡がとれなくなり始めているのです。
この新しい21世紀に生きる子供たちを、一生懸命育てられているお父さんやお母さんのように、たちまちの子供の健康や幸せが心配になってきます。私たち大人がしなければならないことは、子供や孫、その先の、またその先の子供たちのためにも、自然を守り大切にして、地球環境を、弱い動物や魚、蛍やメダカも住める環境を取り戻す努力が必要です。それは、自分自身が破壊者にならないよう、少しでもゴミを減らすようなこと、意識すれば誰でもできる、一人ひとりが身近なことから始めるしかないのです。21世紀の始まりに、世紀をまたいだ越冬ツバメが教えてくれました。
2001年1月6日 11:04 AM |
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先日、東広島市の保育園の園長先生たち10人が、幼稚園の見学に来られました。来られた時間が3時過ぎで雨が降っていたので、「プレイルーム」の子供たちが部屋で遊んでいる様子を見られたのですが、一応に驚かれたのが、どの子もしっかりと、それぞれに「遊び込んでいる」ということでした。どの子もみんな想いおもいのあそびを、夢中になって、しっかりと遊んでいるのです。夢中になってあそびに没頭し集中していますから、とても静かです。それが子供たちの「遊び込んでいる」姿でもあるのです。
ついでに触れておきますが、よくご存じのように、「プレイルーム」は延長保育(預かり保育)の施設です。幼稚園が終わって、45人の子供たちが「プレイルーム」に帰ってきます。年長・年中・年少児と異年齢が入り交じっての生活となります。保護者の方が迎えに来られるのが、夕方5時、6時となりますから、子供たちにはしっかりと遊ぶ時間があります。この日は雨が降っていたので室内でのあそびでしたが、毎日、日が暮れそうになるまで園庭で遊びます。小川で魚やトンボのやごを掴まえようと必死になっている子もいれば、昆虫や虫を探す子、砂場で遊んだり木に登って遊んでいる子もいます。伝承遊びやサッカーボールで遊ぶ子もいます。異年齢の友だちがグループになってそれぞれが遊んでいるのです。その様子を見ていると、昔の子供の「遊びの集団」が甦ったような感じすら持ちます。
このように、子供の「遊びの集団」が成立するには、時間・空間・人間の三つの「間」が重要な要素となります。普段の、幼稚園の子供たちの生活も同じことがいえます。この三つの「間」を保障してやることで、子供たちは、命を甦らせたように生き生きと目を輝かせて遊びます。「間」の保障された子供たちは、自然物や様々な素材を利用し活用しながら、自らあそびを創り出し、そのあそびの中で、その子ならではの発想やアイデアを生かしながら、夢中になって遊びます。
そして、そこでの仲間と関わりを深めながら、あそびを展開していきます。大人から指示や命令されてするあそびではないので、自発的なあそびなのです。そこでは、自己を十分に発揮します。自己を発揮しながら、没頭して遊ぶことで、困難や心の葛藤を味わいながら、その目的を果たしたとき、満足感や達成感をしっかりと持ちます。そのことが、次なる活動の意欲や目標を生み出す大きな動機付けとなり、原動力となっているのです。これらの繰り返しの中で子供たちは自己を充実していくのです。
お父さんお母さんの子供の頃には、まだまだ、しっかりと遊ぶ環境が残っていたと思いますが、今の子供たちに、この「遊び込む」環境がどれだけ残っているか、改めて考え直さなければならないように思います。これは、「空間」としての、子供たちが安心して遊べる自然環境が悪化してきたこともありますが、そのことよりも、私たちの生活そのものの在り方が、子供たちをして、「遊び込む」環境から遠ざけているのではないでしょうか。
子供が、ゆったりじっくりと遊び込める「時間」と、子供同士が深く関わり合うことのできる、「人間」関係としての「間」が、今日の幼児や児童の生活の中から消えつつあるような気がしてなりません。なにかしら、子供の生活が忙しすぎるような気がします。幼児の場合、子供たちだけで遠くに遊びに行かすことはできませんが、空き地や広場で小学生児童の遊ぶ声など聴くことが余り無くなったことに気付かれると思います。子供たちが仲間と遊んでいる姿をほとんど見ることができません。
今、子育てをしているお父さんお母さんは、どの時代もそうですが、はじめて親としての経験をしています。それだけに、とまどいながらの子育てもやむを得ないのかもしれません。おそらく、自分の、子育ての在り方の見本は、意識していようといまいと、その原形は、自分を育ててくれた親がベースとなっているはずです。それをベースに、自分たちの子育てについて、試行錯誤しながら親業をやっているのではないかと思います。
ところが、時々忘れてしまうのが、自分の、子供の時の気持ちです。友だちと空き地で遊ぶことがあんなに楽しかったのに、「遊んでばかりいないで勉強しなさい」といわれて、「今、勉強をしようと思っていたのに、勉強をしろといったから、もうしない」と、訳も分からない反発をしていたときの、子供の頃の、自分の気持ちをしっかりと思い出すことが、我が子の気持ちを理解する大きな手がかりとなります。
皆さんよくご存じの、サン・デグジュペリ作「星の王子さま」の巻頭書に、『おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。』というくだりがあります。子育ての上手な人は、いかに自分の、子どもの時の気持ちをしっかりと覚えているかが、キーポイントになるように思います。子供たちの人間的な感覚を研ぎ澄ますには、自らの興味や好奇心に誘発されて、仲間と関わりながら、時間を忘れて「遊び込む」ことを体験する「間」が保障されなければならないのです。
2000年12月6日 10:48 AM |
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