今年の3月のことです。3学期の終わり2週間前に、中学2年生の男の子を持つあるお父さんが、私のところに相談に来られました。その息子が、担任にかなり反発していて、授業中、先生が黒板に向かって何か書いているとき、スリッパをなげつけたのです。それ以後も、時々、担任に反発しては、似たような事件を起こすのだそうです。親は何回も学校に呼び出され、そのたびに謝り、子供を引き取って家に帰ってきていたといわれるのです。
相談に来られたその日も、父親が学校に呼び出されて、校長先生が、その子に厳重注意を与えた後、子供の前で、「お父さんも今夜しっかりとしかってください」といわれたそうなのです。そのことがあって子供も、「明日から学校には行かない」と言い出すし、自分の性格では叱ることも苦手だし、どうしたものかと悩んだ末、私のところに相談に来られたのです。詳しく訊いてみると、スリッパを投げたのが最初の事件で、その発端は、教室にある備品が壊されていたことで、担任から、いきなり、「おまえがやったんだろう!!」と、頭ごなしに叱られたことが、荒れる引き金になったようです。そのうえ、その担任の方は、怖くて登校拒否?を起こしているというのです。外の先生に対してはそのような反発の態度も余り見せないし、特に、教頭先生を尊敬していて、叱られることもよく叱られるけれど、いろいろな相談相手にはなってもらっているようでした。
そこで私は、お父さんに向かって、「じゃ~、教頭先生に話してもらったら?」というと、「その教頭先生が、転勤になるらしいと聞いて、本人がショックを受けている」といわれるのです。そこまで訊いたとき、「あ~、この子は立ち直る」と直感しました。まだ、子供と会って話を聞いていませんから、本当の気持ちは分かりませんが、担任に対する不信感は持っていても、大人を信頼する気持ちは、まだ、しっかりと持っていることだけは確かなように感じました。
その時のお父さんに対するアドバイスは、「校長先生や教頭先生から、何回もしかられたり注意を受けても直らないということは、 今夜、お父さんが叱っても反発するだけで、解決にはならないと思いますよ。思春期の悩みは自分と自分との心の葛藤なのです。自分で何かの悩みを解決できずに荒れているのだから、しかることより、心の悩みを引き出せるよう、語りかけるようにしてやってください」というような内容でした。それでも不安そうなお父さんに、今夜、子供が帰ってきたら、「そんなに荒れているのも、おまえも何か悩んで苦しんでいるのだろうから、お父さんに話してごらん。きっと楽になるよ」というような言い方で話してみてください、と伝えて帰ってもらいました。
その後、気になっていたので、春休みに入った間なしに、家を訪ねました。お父さんは留守でしたが、お母さんと1時間ぐらい話ができした。訊いてみると、お父さんが相談に来られ夜、アドバイスのとおり、なにか話し合ったようです。お母さんが、「何を話しとったん」と訊いても、お父さんも息子も「べつに」といって話の内容は訊けなかったそうです。
ところが、次の朝、「今日、学校に行く。担任にも謝る」と、ずいぶんと明るくなって学校に行ったそうです。まだ、荒れているのがすっかり直ったわけではないのですが、だいぶ素直になってきた感じがするといっておられました。
お母さんと話をしていて、お母さんの干渉の有り様も気になりました。それは、「息子が、夕方6時に帰るといってあそびに出て、10分過ぎても帰らなかったら、心配で、遊びに行った場所まで探しに行き、物陰から確認する」といわれるのです。もう少し、子供を信頼して、心配しすぎるその姿勢も考え直すよう話しをして、その日は帰りました。
それから7か月が経ちました。最初に相談に来られたときに、お父さんに読んでもらおうと思って渡していた2冊の本を、先日、返しに来られました。私は、出張のため、車に乗ろうとしていたときでしたので、時間がなく、詳しく話を聞くことができなかったのは残念でしたが、「どう、変わってきた?」と訪ねると、「まだ完全にとまでにはいかないが、ずいぶんと落ち着いてきた」といわれ、胸をなで下ろしたのです。
子供たちは、思春期には、いろいろなことで悩みます。社会の在り方や大人に対しての矛盾や不信感、人生に対しての不安や性欲衝動、恋の悩みに直面します。たいていの場合、いろいろなことに悩みながらも、心の中で葛藤しながら、自ら問題解決していきます。
この問題解決能力は、幼児期から児童期の育ちの中で、具体的で直接的な体験を通して育みます。楽しさや喜び、悲しみや悔しさ、恐怖等、感動したり我慢することを通して獲得していきます。その発達年齢に応じた、解決できる程度の体験をしっかりしていることが、困難や人生の壁にぶつかったときの、問題解決能力の原動力の基となるのです。
2000年11月6日 10:27 AM |
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9月も半ばを過ぎた頃、園庭で遊んでいる子供たちが、私を見つけるなり近づいてきて、「園長先生、ありがとう」と言います。何のことかと思ったら、「トーマス号(森の機関車ウッディー)を買ってくれてありがとう」、「石のテーブルをありがとう」と言います。プールが完成した9月の初めにも、「園長先生、新しいプールをありがとう」と、子どもたちが言ってくれていました。
なぜ、「園長先生、ありがとう」と言うのでしょう。それは簡単なことで、新しい遊具が入ったりすると、先生たちが、ホールでの集会や、それぞれのクラスで、「園長先生が買ってくれちゃったんよ」と、話してくれているからなのです。誕生会のようなときのケーキやおやつにしても、「園長先生が買ってくれちゃったんよ」と言って配ってくれていますから、「園長先生ありがとう」と言ってくれるのです。
このことは何を意味するかというと、先生たちが、子供たちに感謝の気持ちを育んでくれているのです。それと同時に、「園長先生は私たちのことを思ってくれている」、「私たちの園長先生なのだ」と言う意識を持たせてくれているのです。私のような駄目園長であっても、先生たちが、「園長先生ありがとう」と言える子に育てることで、人を尊敬したり畏敬の念を持つことの基盤づくりになっているのです。
数年前にも園での講演で話したことがあるのですが、我が家の子育てで、一つだけ女房に感心したことがあります。それは、子供の下着や服1枚を買うにしても、「お父さんに買ってもらおうね」、「お父さんに買ってもらったのよ」と、必ず、お父さんをたててくれていたのです。女房が自分のものを自分で買ってきたときにも、「お父さんに買ってもらった」と報告します。
こうしてくれることで、仕事に忙しく、子どものことをかまってやれない亭主であっても、「お父さんに買ってもらったのよ」と、何か買うたびに言ってくれていると、子供はお父さんを尊敬しながら育ちます。
このことは、子供の育ちの中で大きな力となってきます。誰かに対して尊敬の念や畏敬の念を抱いて育つことは、他人に対してはもちろんのこと、自分自身も大切にできる人間にと成長させてくれるのです。
近年、共働き家庭が多くなっていますが、たとえ、お母さんの収入から買ってやったとしても、「お父さんに買ってもらった」と言って欲しいのです。それは、なんてたって、お母さんが生んで、お乳をやって、しかも、子供に対する細やかな愛情には亭主は勝てません。人間、怖いときや死に直面したとき、「おかあさん」と叫びます。それほど母親の愛情は深いのです。大抵の家庭では、子育てはお母さんが中心となります。お母さんのこまめで優しい愛情が乳幼児期や児童期の子供たちを心豊かに育んでくれます。それと同時に、このころの、父親の存在の有り様も大きく影響するのです。お母さんのように細やかではないが、おおらかな気持ちで見守ってくれている存在、何かあったときには頼りになる存在が父親としての役割となるのです。
このことは、子供が大きくなってくるほど要求されます。思春期を迎えたときや、人生のこと、将来のことについて悩んだりするときに、今までの父親としての存在の有り様が大きく影響するのです。人生のこと、将来のことについて相談相手として直接求めてくることもありましょうが、思春期のようなときには、ほとんどの子は親に相談しません。相談はしませんが、その子にとって、父親に対するイメージや存在の有り様が、自分自身で、悩みや問題を解決するときの、モデルや心の支えとなっているのです。
思春期は子供から大人に脱皮しようとして悩んでいるときです。非行に走るか、それを乗り越え希望に向かうかの分かれ道でもあるのです。その悩みの中で、子供自身の方向決定に、大きく関わるのです。離婚や死別でお父さんがいなくても、あるいは、新しいお父さんを迎えても、そのお父さんに対して、子供にいかによいイメージを持たすかが大切となってくるのです。
以前から、友達関係のような親子でありたいと願う親御さんがいらっしゃいます。友だちのような心を通わせる親子と言う意味では、たとえ、小さな子供であっても、一人の人間として大切にしていると言えるでしょう。それはそれで否定はしませんが、親に対する尊敬や畏敬の念を失うようでは、子供の育ちには悪影響となります。親子としてのけじめのある関わりが必要となります。
幼稚園児のような小さな子供に、「尊敬の念を持ちなさい」と言って育てても、意味がありません。子供にも理解できる、「ありがとう」と言う、感謝の念を植え付けることが基盤となるのです。それは日頃から、お母さんお父さん自身が、「ありがとう」と言う気持ちと言葉で実践することから始まります。そして、母親は、「お父さんのおかげで」と、父親は、「お母さんのおかげ」と、子供たちには意識して伝えるよう心がけて欲しく思います。
先日、年少児が舌を少しけがをしました。先生が病院に連れていったのですが、次の日、「園長先生、病院に連れてってくれてありがとう」と言います。きっと、お父さんかお母さんがそのように言うように教えられたのだと思います。すてきなことです。
2000年10月6日 10:08 AM |
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夏休みの間に、幼稚園の園庭に流れる小川の改修をしましたが、上流には小魚が住めるよう、小川の中間に堰(せき)を作りました。
それを知った20年ぐらい前のPTA副会長だったお母さんが、早速、倉敷にはいっぱいいるといって、彼女の友だちに連絡して、メダカや川エビを手に入れて、たくさん持ってきてくださいました。その日は、私は海に魚釣りに行って留守をしていたので、女房(子供の館保育園の園長)とそのお母さんが小川の中に入れてくれました。
ところが、そのお母さんが帰られてしばらくすると、たくさんのメダカが堰を越えて、子供たちが入って遊ぶ下流の方に移動しているのに気づいたのです。そのままだと溝に逃げてしまいます。大慌てで水の出口をふさぎ、目の細かい網を買ってきました。そして、メダカをすくおうと小川に入ったのです。ところが、メダカに近づくと、すぐに逃げてしまいます。なかなか網に入ってくれません。どうしたものかと途方に暮れて、小川に足を入れたまま、石の上にじっと座っていました。
そうしていると、しばらくすると、メダカの方から足下に近づいてきます。じっとしていると、メダカの方から近づいてくるのです。そして、近づいてきたメダカを一匹ずつすくい上げ、上流に戻すことができたのです。気がついたら夕方になっていて、半日がかりでメダカすくいをしていたのです。
ところが、「メダカすくいがとても楽しくて楽しくて」と、その時の様子を子供のように喜々として話してくれます。「子供の頃にこんな経験をいっぱいしておきたかった」というのです。彼女の生まれ育ったところが、工場地帯で川が汚れはじめた頃で、子供たちは川で遊ぶことを禁止されたのです。そのため、川に入って遊んだ経験がないといいます。
一方、私の場合は、山河に囲まれて育ったので、夏休みには朝から夕方まで川で泳いだり魚を捕ったりして遊んでいて、まさに「かっぱ」そのものでした。
私が小学生の頃にはどこにでもいたメダカですが、今は特別な場所でしか見つけることができません。幼稚園の小川が完成して水を入れると、シオカラトンボ(雄)とムギワラトンボ(雌)が早速やってきて、水にお尻をつけながら卵を生み込んでいます。環境が良くなると、昆虫や小動物の繁殖がよみがえってくることを目の当たりにしています。
この夏休みに子供たちはどのような体験をしましたでしょうか。お金をかけて遊ばなくても、ちょっと田舎の方に行くと、まだまだ自然が豊富で、子供たちの遊ぶところがいっぱい残っています。お父さんやお母さんが、ちょっとだけ意識して、小川に入って川遊びをしたり、昆虫を捕って遊ぶことを子供たちと共にしてくださると、子供たちは命をよみがえらせたかのように、目を輝かせて、喜々として遊びます。自然は子供たちに好奇心や冒険心を誘発させてくれます。その中での様々な経験が意欲や探求心や思いやりの気持ちの基を育ませてくれるのです。
最近の子供は、ほとんどの子がといっても良いくらい、ファミコンなどのゲームで遊びます。そのゲームをみていると、多くのソフトは、相手を攻撃するものばかりです。ところが、以前から危惧していることなのですが、怖いのが、成長期の脳の神経細胞が、どうも、攻撃性の強い配線になってしまうのではないかということなのです。近年、「17才の少年」の事件が度々報道されます。今まで、日本人の犯罪の中では、あり得なかったような、信じられないような事件が続いています。もしかして、この子たちが育った時期が、ゲームに熱中していた、ブームとなった、時期と重なるのではないでしょうか。
お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんは、ほとんど海水と同じ成分だと言われる、羊水の中で育ちます。しかも、わずか妊娠10か月間の中で、海から生物が生まれ、何十億年とかかって人間になっていった過程をすべて通るともいわれています。幼児のや児童の育ちも同じようなことがいえます。経験すべきことを経験して育たないと人間としての望ましい発達をみることができないのです。「自然は偉大な教師」というように、自然との関わりは子供たちの様々な知恵や豊かな感性を育んでくれます。子供たちの「あそび」を再考してみていただきたく思います。
今年の夏休みも、卒園児が訪ねてきてくれました。24才になる千幸ちゃんという子で、幼稚園を卒園すると同時に、お父さんの転勤に伴って、広島市に引っ越しました。それっきり会うこともありませんでしたが、8月に入って間なしに、お母さんと、婚約者の彼を連れて、幼稚園を訪ねてきてくれたのです。彼との婚約が決まって、急に幼稚園を訪ねたくなったというのです。幼稚園のころをとても懐かしく想い出しながら、彼に楽しそうに話している姿はとてもほほえましく感じました。昨年も、人生の転機で悩んでいたとき、急に幼稚園に行ってみたくなったと、新幹線に乗って、東京から来てくれた子がいました。幼稚園は「心のふるさと」なのです。そういう幼稚園であることを嬉しく思います。
2000年9月5日 4:50 PM |
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7月の園だよりでは、「叱る」ということで書きましたので、今回は「ほめる」ということに触れてみたいと思います。
大人になっても、ほめられるということは嬉しいものです。
ご主人から、「今日はきれいだね」とか、「愛してるよ」と言われれば、鼻歌まで出て、その日は一日中楽しくすごせるでしょう。あるいはまた、夕飯の時、「美味しい!」と言って食べてくれれば、料理をすることがとても楽しくなります。ところが、日本の旦那はそういう表現を苦手とします。今の若いご主人はだいぶ変わってきたようですが、欧米文化の中で育った人たちに比べれば、比較にならないほどへたなのです。
それはともかくとして、「ほめられる」ということは、人間の心情をとても心地よいものにしてくれます。その心地よさは、意欲や、やる気を起こさせてくれるのです。大人でもそうなのですから、子供にはもっと大きな効果を生み出します。
子供は母親や父親を中心に周りの大人に依存して生きています。衣食住はもちろんのことですが、子供が遊んでいるときでも、周りに依存できる大人がいてくれるから、安心して遊べるのです。何か困ったときや怖いことが起こりそうなとき、すぐに助けてくれる人がいてくれるという安心感です。子供は、周りの大人に絶対の信頼感を抱いているのです。
それだけではなく、まだまだ、自分のしていることに確信が持てませんから、新しいことには、かなりの不安を抱きます。そういうとき、周りの大人が、「いいよ」とか、「だいじょうぶよ」と言ってくれることで、安心して行為や行動を起こします。子供が服を汚してどろんこなって遊んでいるようなとき、「もしかして、叱られるのでは」と思いながらしていることでも、周りで見ている人が、うなずいてくれたりニコニコして見ていると、安心して遊べるのです。
このようなあそびは、周りから指示されてするあそびではありませんから、ほとんどが自分の好奇心や興味からはじめますので、自発的な行為なのです。自発的な行為を認めてもらえることの積み重ねが、先での自主的な子供に育つ基となるのです。
ところが、この自発的行為は、「叱られる」ことと、「ほめられる」ことの両義性を備えています。先に話した「どろんこあそび」のように、服を汚したり家の周りを汚すと、大人から、「叱られる」かもしれない一面と、工夫をして遊んでいることや、生き生きとしている姿に感心して、「ほめられる」という一面もふくんでいます。
子供が家事の手伝いをすると、「ほめられる」ことでもあり、逆に結果として、散らかしたり壊したりして、「叱られる」ことにもなり得るのです。このような両義性を持つ行為は、「ほめられる」か、「叱られる」かになるわけですが、そのどちらになるかは、養育者や周りの大人の養育態度や価値観、あるいはその時の、大人の精神状態によっても違ってきます。
そうなると、ほめることは叱ることよりも難しいのかもしれません。食事が終って、子供が、食器を片付ける手伝いをしようと運んでいる途中で、おぼんごと落として壊してしまったようなとき、「手伝ってくれてありがとう。お母さんとっても助かっているよ。○○ちゃんのそういう優しいところが大好きよ。今日は落ちてしまったけど、また手伝ってね」と言うのと、「また壊して!、この前も気を付けなさいと言ったでしょ!」と言うのでは、子供の気持ちは180度違ってきます。
初めの方は、「壊れたけど、お母さんは私が手伝ったことをありがとうと言ってくれた。今度は壊さないようにしよう」と思うかもしれませんし、あとの方は、「もう、手伝いなんかイヤだ!」と思うことでしょう。
このような特別なことでなくても、ふだんの生活の中で、我が子をほめてやることはいっぱいあるはずです。特別に良いことをしたときにほめようと、その機会を待つのではなく、ちょっとしたこと、人に優しかったり、親切な行為をしたとき、あるいは、何かをして満足そうなとき、なにかが出来たと本人が感じているようなとき、「○○ちゃんの優しいところが素敵よ」、「よかったね」、「すごい、すごい」、「きれいに出来たね」、「よく遊んだね」、「自分で出来たんだ」と、言葉にして言ってやることが、子供のやる気と正義感を育てるのです。
ほめ上手になることは、育て上手にもつながってきます。大げさにほめるのではなく、ちょっとした行為にちょっとしたほめ言葉が有効なのです。「そうは言っても、いたずらばっかりしているのに、そんな優しい言葉なんか言ってはおれない」と思う気持ちを飲み込んで、その子の、一つでも良いところを見つけて、一日一回は、ほめてやってください。一日一回ほめることを意識してやっていると、その子の良いところがどんどん見つかってきて、ほめる回数も増えてきます。最初に言ったように、大人でも、「きれいだよ」とか、「愛しているよ」と言われたときの、心地よさをおもいだして、かわいい我が子にも、そのような気持ちをいっぱい与えてやってください。
2000年8月5日 4:37 PM |
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皆さんは、子供の頃、親や先生、あるいは近所の人から叱られた経験がどのくらいおありですか。すべては覚えていなくても、「このことだけははっきりと覚えている」と言うことが、一つや二つはおありではないでしょうか。
私も、叱られた直接の原因は思い出せないのですが、叱られているときの、その場の情景も一緒に思い出すことがいくつかあります。
一番小さいときの記憶では、雪の降る夜、母親に雪の中に放り出されて、泣くどころか、自分でわざと雪をかぶってまでして、反抗していたことをはっきりと覚えています。伯父の家に泊まりにいっていたときで、おそらく何かいたずらをして、その伯父に対して迷惑をかけたのではないかと思うのですが、母親から、「ごめんなさい、と言いなさい」と言われても、絶対言わないので、今までは叱ったことのない優しい母親が、縁側から私を雪の中に放り出したのです。
その伯父が亡くなったのが、私が4才の時ですから、4才の時に叱られているときの記憶です。小学校の低学年の時も、同じように何かのことで、「ごめんなさい」と言わないので、母親に、真っ暗な蔵に、「蛇がいる」と脅かされながら入れられようとして、本当に蛇がいると信じて、泣きながら、入り口の戸にしがみついて抵抗したのですが、許してもらえず、とうとう、「ごめんなさい」と言ってしまった一生の不覚があります。
父親にも、叱られた記憶が一回だけあります。これも、何で叱られたかは記憶にはないのですが、やはり、「ごめんなさい」と言わないものですから、「謝るまで座っていなさい」と板の間に正座させらされ、1時間も2時間も意地を張って座っているものですから、今度は逆に、母親が泣きながら、「お父さんに早くごめん言いなさい」と、しきりに私に嘆願している状況は、今でもはっきりと覚えています。
いずれも、「ごめんなさい」と言わない、私の意地っ張りが原因しています。いたずらっ子だった私にとっては、悪いことをしているという意識がなかったからだと思います。
両親から叱られた経験の記憶はそのくらいで、逆に、「敷居(しきい)はお父さんの頭だから、敷居を踏んで通ってはいけない」と言うような、明治生まれの、すべてのことに対して厳しすぎる祖母から守ってくれていた優しさの方が記憶に残っています。
今のお母さん、お父さんの世代での、「叱る」ということが、どのような形でおこなわれているのでしょうか。一度、このことについて調べてみたら、おもしろい結果が出るのではないかと思っています。
一つだけ、私の気になっていることをお話しします。
たいていの場合、子育ては、お母さんが中心的な役割をしておられるご家庭が殆どだと思います。それはそれで、とても大切なことなのです。子育てを通して母性愛が育まれ、子供は、その優しくて細やかな愛情に包まれて安定した幼児期を過ごします。
子育ては毎日のことですから、お母さんが子供に対して叱ったりすることは、よくあることだと思います。毎日、ガミガミ言うのは感心しませんが、本当に叱らなければならない時には、しっかりと叱っても良いと思います。子供は、悪いことをして叱られることについては、何故、叱られているのか、何故、そんな風にお母さんが言うのか等、心の中で葛藤しながら、解決していきます。それは、自分の感情をコントロールする力にもなっていくのです。
気になっていることと言うのは、その時の父親との関係です。普通ですと、母親に叱られたときには、父親の、そのことに対してのおおらかな態度が子供の追いつめられている気持ちを救い、父親に叱られたときは、お母さんの優しさで救われるのです。
ところが、最近の例を話しますと、お母さんが子供を叱っても、子供が母親の言うことを聞いてくれないと、お母さんは、お父さんに事細かく訴えます。それを聞いたお父さんは、お母さんと一緒になって叱るのです。これは、子供には応えます。子供の心の中で解決していく度合いを超えてしまっているのです。通常は、叱られながら、心の中の葛藤を通して、子供自身で解決していくのに、心の傷として残るほど、子供の気持ちは追いつめられていきます。心の逃げ場所がないのです。
「ほめる」ことは以外と簡単に出来るのですが、叱ることはとても難しいことなのです。ほめすぎるのも、逆に、ほめられるためにしようと邪念を生みますが、「ほめられる」ことは、もともと気持ちの良いことですから、意欲につながります。 問題は、「叱る」ことの難しさです。よく聞く話で、電車の中で我が子が騒いでいたら、「怖いおじちゃんが見ているから静かにしなさい」と、人のせいにして叱るのではなく、我が子の、「騒いでいる」ことに対して、「人に迷惑をかけるから、電車の中では騒いではいけません」と、悪いことをしたそのことについて、その時点で、しっかりと叱ることです。「あなたは、いつもそうなんだから!」と、人格否定もいけません。
2000年7月5日 3:49 PM |
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