人生80年と言われ出して久しくなりますが、子供達は、これからの長い人生を生きていかなければなりません。まさに、21世紀を生きていく子供達です。地球環境の崩壊や温暖化、世界人口の爆発からくる食糧危機や核の問題など様々な不安を伴いますが、とにかく、これからの時代を生きていくのに、まだ、スタートしたばかりです。その子供達が自分の人生を切り開いていくうえで、大きな役割をするのが“意欲”、つまり、“やる気”のある子に育つかどうかがカギとなります。
では、そのやる気というのはどこからくるのでしょう。その最初は、愛情を持って接してくれる人がいるかどうかから始まります。通常の場合、それは両親であり、特に母親がその大きな役割を果たします。20世紀の始め、アメリカやヨーロッパの、病院に入院している子供の中で、戦争などで孤児になった子供の死亡率の異常な高さが問題になったことがあります。医学的な適切な処置が施され、栄養や衛生にも改善がなされているのにもかかわらず、親のいる子より、孤児の死亡率が異常なほど高いのです。ところが、その孤児達の養子先を見つけ、新しいお父さんやお母さんがその子の看病を始めたり、家に引き取って育てたことで、その死亡率が、劇的に低下したといいます。このことは、自分のすべてを委ねることが出来る親がいるという絶対的な信頼感が、その子に安心感を与え、生きる意欲となったのです。
それは、子供にとって常に自分を見守ってくれて、何か怖いことや不安に感じるときに、すぐに助けてくれ、やさしく包んでくれるはずの親の存在が、情緒の安定につながり、その情緒の安定が意欲となるのです。つまり、周りの大人、特に親から愛されるということが、その子の“やる気”の根源となっているのです。愛されることによって得られる安心感が、未知のものに対する恐怖感から開放させ、そのことで好奇心を呼び起こし、未知の世界へと踏み出す勇気となるのです。
愛することと甘やかすこととは別です。私達大人が、小さな子どもに接するときのあのやさしい気持ちは、本能的といってもいいくらい、ごく自然に出てきます。なにも特別なことをするのではなく、ごく自然に出てくる子供への愛情で接することが、子供を正常に育てることが出来るのです。それを、何か特別なことをしようとする親の欲が、自然な愛情までも抑制して、子供の発達を歪めてしまうのです。私達が出来ることは、子供自ら育っていくことを援助することなのです。そのためには、今ある子供のありのままの姿を受け止め、それに対して、心に自然に湧き上がる愛情をもって接していくことがとても大切なのです。
このように、親としてのごく自然な愛情に包まれて育った子は、情緒の安定とともに、好奇心をはぐくみ、その好奇心が自ら何かに興味を抱き、あるいは、探索活動を通して外界に働きかける意欲となるのです。それはとりもなおさず、“やる気”人生のスタートなのです。
このようにして、幼児期にもなるとだんだんといろいろなことが出来るようになります。そして、その様子を見ていると、自分にとって少しだけ困難なことに挑戦していることが分かります。やさしすぎるのでもなく難しすぎるのでもない、ちょっとだけ困難なことに意欲を持つのです。例えば3才児が、幼稚園で、わんぱく山の岩の上から飛び降りている様子を見ていると、ちょっとだけ高すぎて、ちょっぴり怖いところから飛び降りるのです。そのことに一生懸命挑戦するのです。そして、それが出来るようになると、「見て、見て」と、先生や親を呼びます。困難を征服した達成感の喜びが、次の意欲を呼び起こし、新たなる挑戦を求めるのです。
また、人間がまわりの環境に働きかけ、それに対して効果的な変化を与えることが出来るという有能感も、“やる気”を起こす大きな役割をしています。子供が何かに興味を抱いたときに、それを操作したり、切ったり折り曲げたりして、それに変化を与えようとします。泥んこ遊びもそうですし、空き箱やダンボールを使って何かを作るのも、自分のイメージにそって操作し変化を与えることが出来たという有能感が、次なる意欲を呼び起こすのです。このような活動や遊びの中から、“やる気”のある人間の基盤を培っているのです。
いわゆる“教育ママ”といわれる人の陥りやすい失敗は、まだ、そのことに興味や関心を持っていないのに早く教えようとしたり、その子の能力以上の難しいことをやらせようとすることで、逆に意欲を奪ってしまうことなのです。知育もその子にとって知りたいと思っていること、覚えたいと思っていることを、“ちょっとだけ” “ちょっとだけ”と教えてやる方が、その子にとって、“解った”という喜びをもたらし、もっと学びたいという気持ちを起こさせるのです。
1999年1月8日 1:16 PM |
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最近、「キレル」子供たちが増えていると言われます。感情のコントロールができなくて、すぐに行動を起こしてしまう子供たちです。その代表的な出来事として、中学生が授業中に、先生から何かのことで注意されて、「カァッ」となってナイフで刺してしまった殺傷事件が続けてあったことは記憶に新しいと思います。このような事件は、学校で起こったために大きく報道されましたが、似たような事件は、十数年前から、少年の世界でたびたび起きていました。例えば、道路を車で走っていて,後ろの車に乗っている人が、何かのことでクラクションを鳴らしただけで、前の車に乗っていた少年が、車を止めて、ナイフで刺してしまうのです。誰がどう考えても、ちょっと注意されたりクラクションを鳴らされただけで、ナイフでその相手を刺して人を殺すことなど考えられませんが、実際の事件としてたびたび起こっているのです。
人間、暴力はいけないと分っていても、「カァッ」となって頬っぺたを殴ってしまうことはよくありますが、そのように、手で殴るのではなく、そこで何故、ナイフを使わないといけなかったか、我々には理解のできないことです。恐らく人を刺してしまった少年も、逮捕されて、感情の高ぶりが収まり冷静になったとき、どうして人を刺してしまったのか自分でも理解できないのではないかと思います。
人間、どんな人でも,感情の高ぶりはあります.「カァッ」と腹を立てることもよくあることです。そうなっても、たいていの場合、我慢したり反省したりして、自分の心の中でその感情をコントロールします。それができなくなると、大きな声で怒鳴ったり、相手を殴ったりするということが起こります。その殴る行為も、手のひらやげんこつで殴るにしても、相手にケガがないように、殴る場所や力の入れ具合を手加減しているものです。たいていの場合、けんかをしていても手加減をするという自制の気持が働いているのに、注意されただけで、どうしてナイフで刺してしまうほど感情のコントロールができなくなっているのでしょう。刺してしまったらどんなことになるか、どんなに恐ろしいことで、どんな結末になるか、誰でも考えることが、どうしてできないのかと考えてしまいます。
このような少年に育ってしまう原因はいろいろと言われています。先月の園だよりの、このコーナーの『体験の記憶』でも書いた、子供たちが仮想現実の世界に浸っているということも原因の一つかもしれません。それと関連するかもしれませんが、今回は、身体接触、つまり、スキンシップの不足について考えたいと思います。スキンシップといえば、最初に思い浮かべるのがお母さんのスキンシップです。お母さんに抱かれ心休まる様子は誰もが想像します。それほど、暖かい愛情を感じます。ところが、このスキンシップが不足すると、怒りや暴力の爆発といった情緒障害を起こすといわれています。
このことについての詳しい説明は省略しますが、子供たちが幼稚園から帰ってきた時、しっかりと抱きしめてやって欲しいのです。どんなに幼稚園で楽しく過ごしてきたとしても、生まれてわずか4,5年しか経っていない幼い子供なのです。親から離れて、自分なりに一生懸命頑張っているのです。必ずストレスを感じているはずです。そのストレスが、お母さんが抱きしめてやると不思議なくらい解消するのです。何か悲しいことや辛いことがあった時も同じです。我が子がかわいくても、叱らなければいけないことも度々あります。叱ることは仕方ないとしても、その後に、「もうしないよね」と言うように、抱きしめてやることです。その抱きしめる行為が、親の愛情を感じ、子供を良い方向に育てていくのです。
このように抱きしめるだけがスキンシップではありません。日常生活の中で、両親や兄弟姉妹ともぐれ合って遊ぶという身体的接触の経験もすごく大切なのです。心と体は密接な関係があるのです。これらのことは、情緒障害を起こしてしまった子供の治療に効果的であると言われていますが、そのことでも分かるように、心の病と思っていたことが、実は、運動や身体的接触の不足といった体の側に原因がある場合もたくさんあるのです。
これらは日ごろ家族や友達と体が触れ合ったり、「おしくらまんじゅう」のような押したり押されたり、「相撲」のような取っ組み合いをしたりすることが圧迫刺激を生み、適度な身体的接触となるのです。子供たちが小学校高学年や中学生になっていろいろな問題行動を起こすのも、もしかしたら、このような、幼い時のスキンシップの不足も原因しているかも知れないのです。
先に書いた、少年のナイフによりる殺傷事件の根源も、幼い時のスキンシップの不足が一つの要因となっているかも知れません。
1998年12月7日 6:25 PM |
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子供が、お父さんやお母さんに本を読んで欲しいと、絵本を持ってくることが度々あると思います。そうすると、たいていの場合、親は、「よしよし」、「いいよ」と言って読んでやります。子供たちは、お父さんやお母さんの膝に抱かれたり、腕枕をしてもらって読んでもらいます。そうすると、子供たちは温かい親の愛情を感じながら絵本の中に入っていきます。親も子供も幸せな気分です。
ところが、忙しくしていたり、何か用事があったりすると、ついつい後回しにしがちです。「今、忙しいから後でね」と、言うことになります。本当は、せっかく「絵本を読んで欲しい」と、言っているのですから、少々の忙しさなら、それを置いておく分でも、是非とも、読んでやりたいものです。それに応えてやることが絵本好きな子供になる要因の一つなのです。「あとで!」と言って、仕事が落ち着いて読んでやろうと思ったら、その時には、子供はすでに寝てしまっているということも度々あります。あるいは、他の遊びに興味が移ってしまい、絵本から気分がそれてしまうことにもなります。子供の方から読んで欲しいと思っている、せっかくのよい機会を失うことになります。そのようなことが度々あると、絵本を読んで欲しいと思うことさえ段々となくなっていきます。親の方が少々忙しくても、あるいは疲れていても、「絵本を読んで欲しい」と、絵本を持ってきたときには、出来る限り読んでやって欲しいと思います。
同じように、子供が何かが出来るようになったとき、子供は、「見て!、見て!」と言います。子供が、「見て!見て!」と言うときは、たいていの場合、今まで出来なかったことが出来るようになり、とても嬉しいときなのです。「跳べるようになった」、「渡れるようになった」、「乗れるようになった」、「登れるようになった」等々、その子の成長と共に、いろいろなことが出来るようになる度に、「見て、見て」と言います。その時には必ず見てやって欲しいのです。子供は、その、出来るようになったことを、お父さんやお母さんに見てもらいたいのです。そして、「わぁ、すごい、すごい」とか、「がんばったね」とか、その状況に合った言葉で応答してやって欲しいのです。それが、自分を認めてもらうことになり、効力感となって、次の意欲につながるのです。それを、子供が、「見て!見て!」と言っているのに、親の方が、「今、忙しいの!」、「あとで!」と言ったりすると、せっかく、「見て欲しい」、「喜んで欲しい」と思っているのに、それがかなえてもらえないと、やはり、段々と意欲を失っていきます。ここはやはり、仕事の手を休めて、見てやり認めてやる必要があります。そのことが、将来、いろいろなことにチャレンジする能力の基盤となるからです。
ところが、余りにも他の子と比較したり比べるために、「すごい、すごい」と言うような言葉が、素直に出てこない人があります。例えば、近所に、我が子と同じ年齢の子が、すでに縄跳びが何回も跳べる子がいるとします。我が子も、「自分もそのように跳べるようになりたい」と、一生懸命挑戦しています。しかし、何時も一回で縄が足に引っかかってしまいます。そして、何日か経って、やっと一回ほど跳べるようになりました。子供は嬉しくて、「見て!見て!、跳べるようになったよ」と、言ってきます。お母さんは、近所の子と同じように跳べるようになったのだと思い、期待して見みます。ところが、わずか一回しか跳べません。その時に、「たった一回だけなの!」と、がっかりして言うと、子どもはとても悲しい気持になります。子供は頑張って頑張って、やっと一回跳べたのです。「わぁ、すごい!跳べたね!」と、喜んでやることで、子供の喜びは倍増し、次の意欲や、やる気が育つのです。子供の成長は、親の喜びであると共に、子供本人にとっても大きな喜びなのです。
子どもは、自分にはちょっとだけ困難なもの、少しだけ程度の高いものに挑戦します。それを克服することで、達成感や効力感を感じ、喜びとなり、次の挑戦を求めます。それが意欲なのです。それは、人との比較ではなく、周りの人や環境からの刺激で、自分自身の課題を見つけ、挑戦しているのです。それが子供の遊びであり生活なのです。
子供の言葉や行為を通して気持ちを推察し、子供との応答関係をより多く持つことが、子供との共感関係を育み、親子の信頼関係を築き、将来の生きる力となっていくのです。このように、子供の思いや発言、行為に応えてやる応答的親子関係の生活を大切にしていきたいものです。そうしていくと、我が子の良さがしっかりと見えてきます。子供が素敵に見えてきます。
1998年11月7日 6:14 PM |
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幼稚園の子供たちが、テレビゲームやたまごっちのような、いわゆるコンピューターゲーム機を、どのくらいの子が持っていて、その子供たちがどのくらいの時間、それで遊んでいるのか調査をしたことがないので解りませんが、今日の様子だと、相当数の子供たちが、それを買ってもらって、「仮想現実の世界」で遊んでいるのではないかと思われます。ボタンを押せば、簡単に相手をやっつけたり殺したりもします。たまごっちもボタンを押すだけで子供を育てることができます。そのゲームで勝ったり高得点を得るため、必死になって相手を殴り倒したり、やっつけたりします。いくら殴ったり殺したりしても、血を見ることもありませんし、殴った手が痛くなるわけでもありません。たまごっちで子育てしても、実際におむつをしかえることや夜泣きして起こされることもありません。うまく育たなければ、簡単にボタンを押して消すこともできればやり直しもできます。
もし、子どもたちが毎日のかなりの時間を、このような遊びをして仮想現実の世界に浸っているといるとしたら、何か末恐ろしい気がしてなりません。もしかして、人をいじめたり殴ったり、ナイフで刺しても、余り心の痛みを感じないような子供が育ってしまうのではないかと思うのです。そうだとすれば、このようなたまごっちやテレビゲームの仮想現実の世界で遊ぶ時間をできるだけ少なくしていくことを真剣に考えなければなりません。
今日、小学校や中学校での、いじめや不登校の問題、校内暴力やナイフによる殺傷事件等々、様々な問題が表面化しています。そして、今日の社会では、このようなことが、どこの学校や家庭で起こっても仕方がない状況になっていると言われます。それほど子供の世界が異常な状況に置かれ、これらの原因には様々な要因が相互作用し複雑化しているのだと思います。
この要因の一つに、子供たちの生活が、たまごっちやテレビゲームのような仮想現実の世界に浸っていることが上げられるのではないかと思うのです。
私たち大人の子供の頃は、このような仮想現実の世界に浸って過ごすというようなことはほとんど経験しないで育ってきています。長い間の人間の経験を通して培われた、生活の知恵や子育ての方法の中で育てられてきました。そこでは、子どもたちは戸外で、自然の中で、日が暮れるまで友達と遊んでいました。
例えば、兄弟喧嘩をしたり、友達と喧嘩をしたときには、殴ったりひっかいたりすることがあります。殴られた相手はもちろん痛いのですが、殴った自分の手も痛かったり、喧嘩に勝っても、泣いている相手を見て自分の心も痛みを感じます。そのような身を持っての経験の中から、喧嘩の手加減や相手に対しての思いやり、喧嘩にならないよう感情をコントロールする自制心も育ちます。
ところが、コンピューターゲームでは相手を殴り殺しても、なんの痛みも感じません。気に入らなかったら簡単にやり直したり消したりします。感情の自制を必要としません。
今、私たちは、今まで人類の経験したことのない環境の中で子育てをしているといっても過言ではないのです。仮想現実の世界に浸って生活する子供たちが、どんな人間に成長するのかは、まだ解らないのです。危険さえ感じます。
子供たちは、「知識の記憶」と「体験の記憶」を脳の中に持っています。知識の記憶というのは、本を読んだり、親や先生から習ったり勉強したりして身に付けます。ところが、体験の記憶は、いくら本を読んでも、勉強して知識を身につけても、獲得できないのです。
熱い冷たいということや土や水の感触は実際に触ってみないと解りません。熱くなれば汗が出てきたり、日陰に入れば涼しくなるということも体験の中から学びます。勝てば嬉しい、負ければ悲しい、優しくしてもらうと嬉しい、転べば血が出る、痛い、友達と一緒に遊べば楽しい、お母さんに抱きしめられたら気持ちが休まる、等々、様々な経験を通して、脳の中に「体験の記憶」として残るのです。このような体験を通して、子供たちは、喜びや悲しみを知り、痛みや相手を思いやることも学び、危険なことやその時の対応の仕方や防ぐ方法も獲得します。競争する心や助け合う心も育ちます。善悪の判断もできるようになります。
このような「体験の記憶」は、子供たちの生活の中で、自然との関わりや遊びを通しての直接経験の中で培われるのです。コンピューターゲームのような「仮想現実の世界」からは、獲得できないのです。人間として成長していく過程の中で、より望ましい豊かな経験を、特に、自然と関わったり友達と遊ぶことを、しっかりとさせてやって欲しいのです。
我が家のコンピューターゲームを、今一度、見直してみて戴ければと思います。
1998年10月7日 5:59 PM |
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投稿者名:ad-mcolumn
子供たちの夏休みはどんな生活でしたか。きっとご家族でそれぞれの思い出となるような楽しい経験をされたことと思います。
しかし逆に、子供が毎日毎日うるさくて、早く幼稚園が始まってくれればよいのにと思われたことも度々有ったのではないでしょうか。いたずらをするやら、部屋の中を走りまわるは、遊んだ玩具は片付けてくれないし、兄弟喧嘩はするし、静かにしていると思えばテレビゲームばかりしているしと、ついついグチもでてしまいます。無理も有りません。
無理も有りませんというのは、子供にとってもお母さんにとってもなのです。もし子供が一日中、家の中で過ごすとしたら部屋の中を走りまわるのも無理はないのです。幼稚園にきているときですら、雨降りの日には、いくら保育室の中で楽しい活動をしていても、外に出てでも遊ぼうとする子さえもいます。それを、毎日家の中で「おりこうにしていなさい」と言っても無理なことで、じっとしてはおれないのです。子供は身体ごと生活しているのです。そういう子供を相手に、静かにさせようとするお母さんもストレスが溜まります。ついイライラして叱ってしまいます。まじめすぎるお母さんは、私の子育てが間違っているのではないかと悩んでしまいます。
簡単な言い方をすれば、外でしっかり遊ばせてやれば子供は満足しますから、子供もお母さんもイライラすることも有りません。子供たちは外に出ると、泥であれ、水であれ、草や虫もたちまちのうちに友達にしてしまいます。「自然は偉大な教師である。」というように、子供の好奇心を思う存分満足させてくれるのです。その時の子供は生き生きとしています。毎日イライラしてグチばかり言って過ごすのと、子供の姿を微笑ましく思って過ごすのとでは、子供の育ちが全然違ってきます。
そうなんです。子供に合った環境においてやれば、子供はみんな素敵に輝くのです。夏休みの過ごし方にもいろいろとあります。身近な自然と関わることもそうですし、山や川あるいは海に行って遊ぶのも、田舎のおじいちゃんおばあちゃんのところに子供だけで泊まりに行くのも、子供たちにとってはとても素敵な経験となります。
もう夏休みも終わりましたが、私の友達の家族のことを紹介しておきます。私も自分の子育てのときに一回でいいからしておいてやればよかったと後悔していることなのですが、テント生活をしながらの家族旅行です。その友達というのは、今、私と大学院で同じ研究室にいる38歳の東大阪の小学校の先生なのですが、一緒に寮生活をしています。その友達には、小学校一年生の女の子と五年生の男の子がいます。第二反抗期に入ってきたのか、反抗的になってきた男の子のことをしきりに気にしていました。
そのお父さんの寮生活が一年半も続いていますから、お父さん不在の生活が気になっていたのです。そして夏休みに入ってすぐに、車にテントや飯ごうを積んで、東海、中部地方を皮切りに東北から北海道とテント生活をしながらの二週間の旅行を決意したのです。今、東北地方は、集中豪雨に見舞われていますが、その時もほとんど雨が降っていたのです。気の毒としか言いようがないかと思えば、それはそれですばらしい経験になっているのです。二、三日雨が続いていましたが、次の日、朝日が輝いています。その朝日に感動していたら、地元の人から、「向こうの丘に上がったら富士山が見えるよ」と言われ、親子が争うようにその丘を走って登り、その富士山の姿を目の前にした感動は、家族みんなの心の中に焼き付いていると言います。それだけでなく、大雨でテントが張れず、公営キャンプ場のテントに非難したり、子供と一緒に濡れたマキに苦労して火をつけ、飯ごうを炊いたり、親子で魚を釣ったり、海で貝をとっておかずにしながらのキャンプ生活は、子供にとって、日頃の生活ではとても経験することの出来ない、素晴らしい経験をすることが出来たことと思います。
もちろん、子供たちは父親の素晴らしさやお母さんの優しさをしっかりと感じて、家族の絆もしっかりと再構築できたものと思います。
この友達の家族のように、二週間も休みがとれる方は少ないかも知れませんが、三、四日なら工夫次第です。安易に海外旅行をするより素晴らしい経験が出来ます。お子さんが、小学生の高学年になったら、一回でもいいから、このように野外での生活を思いっきりさせてやりたいものです。塾に追いやる生活よりも、きっと多くのことを学んでくれます。このような生活の中から、自立心や創造力、意欲や思いやりの気持ちを育みます。
1998年9月7日 5:44 PM |
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