文字や数量について(平成9年度)平成10年2月

1月の自由参観の日の子供たちの活動が、自分たちで作った大型かるたや郵便ごっこ等で遊んでいたクラスがあったためか、次の日のお便り帳の中に、年中組のお二人のお母さんから、文字についてのお便りを頂きました。一つは、「友達からお手紙をもらったけれど、わが子は読むことができてもまだ書くことができません。全体的に見てほとんどの子が書けるのでしょうか?」という主旨のお便りと、「最近、文字に興味を持っているようなので、家で字の練習をしてみると鉛筆の持ち方や書き順が違っているのですが、幼稚園では教えてもらえないのでしょうか?」という主旨のお便りを頂きました。


お二人のお母さんには、それぞれご返事を差し上げましたが、多くのお母さん方の共通の関心事であるかと思いますので、改めて、文字や数量のことについて触れておきたいと思います。
結論からいいますと、幼児期に急いで文字を教えようとドリル学習のような一斉に文字や数量を教えようとすると、逆に、文字嫌い、勉強嫌いの子供を育てることになります。お母さん方の中には、わが子の友達が字を書いているのを見ると、わが子が遅れているのではと心配して、急いで教えようとされる方がいらっしゃいます。また、早い時期から教えた方が学校に入ってから良く勉強ができるようになると信じている方もいらっしゃいます。しかし、残念ながら、このどちらのタイプも勉強嫌いな子供を育ててしまう危険性があります。


確かに、幼児期は文字や数量に興味を示し始める時期であることは、間違いありません。何故かといいますと、家庭や幼稚園での生活の中に、文字や数量と関わる生活や環境があるからです。例えば、絵本を読んでもらったり、自分の持ち物に名前を書いてもらったり、郵便ごっこやかるたで遊んだりもします。数量もどちらが多いとか大きい、あるいは、何個ずつ分けようとか、お風呂で数を数えながらお湯の中に入っているというように、幼児をとり巻く環境の中に文字や数量に関することがいっぱいあります。その中で文字や数量に興味を示し、認識を深めながら、自然な形で自分のものとし獲得していきます。それと同時に、子供たちの遊びや生活の中での様々な経験を通して形や数量に対する概念が形成されつつある時期でもあります。


幼児は、遊びや生活の中で周りの環境や自然の営みや変化に気付き、友達や大人との関わりの中から、見たり触れたり感じたりしながら、様々なことに好奇心や探求心を抱くようになります。そして、遊びを通して、ものの特性を知り、操作の仕方や仕組みや役割を理解しながら、物事の法則性に気付き、自分なりに考えることができるようになります。幼児は、このように、直接的・具体的な体験を通して知的発達を実現していくのです。


ところが、受験や早期教育の情報の氾濫する中で、親はあせってしまいます。直接、文字や数を教えようとしがちです。幼児期は、まだ、文字や数量、形に対する概念形成をしつつある時期で、いきなり文字や数を教えようとすると拒否反応を示し、文字や数を獲得していくことがいやなこととして心の中に刻まれてしまいます。勉強のできる子にと思って教えたことが逆に勉強嫌いの子にしてしまいます。


幼児期に大切なことは、直接教えようとするのではなく、文字や数量、形に対する楽しい生活を保証してやることです。楽しいからこそ興味を示し、もっと楽しみたいからこそ文字や数を知りたいと思うのです。幼稚園や家庭で、お話を聞いたり絵本を読んでもらったり、郵便ごっこやかるた遊びをしていることが、結果として、楽しさの中で文字に対する興味付けとなっているのです。文字や数量、形を獲得していくまでのレディネス(準備性)となる様々な経験が豊富なほど、文字や数量、形に対する興味や関心・意欲が高まるのです。

子供たちは楽しさの中で「はな子」の「は」だと発見したり、「いちろう」の「い」はどう書くのかと聞いてくるようになります。その時には「い」だけ教えてやれば良いのです。今知りたいのは「い」だけなのです。それを、文字に興味を持ち出したからと、「あいうえお」とすぐに文字や数を教えようとすることは、子供から文字に対する興味や関心、発見の喜びを奪うことになります。


また、幼児は書き順をでたらめに書いたり逆さ(鏡文字)に書いたりします。これをすぐに間違っていると指摘することも文字嫌いにします。子供から見たら、間違ってはいないのです。それは、形に対する概念形成ができつつあるときで、文字全体を形で捕らえようとしているときなのです。文字を形全体で捕え同じ形を書こうとします。順番はどうでも、同じ形に書けるようになった喜びが有るのです。形を全体で捕えることをしっかりと経験し、それができるようになって初めて、文字を正しく書こうとしてくるのです。その時期が6歳7歳頃なのです。だからこそ、小学校に入って文字を正しく書くことを喜んでするようになるのです。


子供たちは、文字についてもいろいろな発見をしながら、それを喜びとしながら、好奇心をしっかりと働かせているのです。お母さん方には、その姿を喜んでやってほしいのです。逆さまに書いていても、それらしい文字を書いたことの方を喜んでやって欲しいのです。そういうお母さん方の暖かい愛情に包まれた共感的態度こそ、子供自ら勉強したり物事に取り組む意欲や態度が育つのです。


どうぞ、あせらないで子育てをして欲しいのです。目くじらを立てての子育ては、学校に入ってから、無気力やいじめや暴力、思春期を迎える頃には手におえない様々な問題に見舞われることとなります。
毎日楽しく絵本を読んでやったり、家事を一緒にしたり、外でしっかり遊んだり、楽しい親子の生活を楽しんで戴くことが、幼児期の心を育むとても重要なことなのです。そういう暖かいほのぼのとした愛情が子供たちの心と情緒の安定につながり、その安定が基礎となって初めて、自主性や主体性、好奇心や探求心、意欲や態度が育つのです。そのことが知能の発達の大きな基盤となるのです。

故郷(ふるさと)(平成9年度)平成10年1月

新年あけましておめでとうございます。年末年始といかがお過ごしでしたか。田舎のおじいちゃん、おばあちゃんのところに帰省された方や、旅行された方、寝正月と決め込んでゆっくりと休養を取られた方、逆に、お客さん続きで楽しくも疲れてしまったと言われる方、等々、それぞれのお正月を迎えられたことと思います。


年末年始は、帰省とそのUターンで、新幹線も高速道路も混雑していましたが、みなそれぞれに故郷があるのだと改めて感じています。お父さんお母さんの故郷はどこですか。三次で生まれ三次で育ったという方もいらっしゃれば、大阪や東京、九州や北海道、あるいは外国で育ったという方もいらっしゃることと思います。

どなたにも故郷があります。故郷にはいろいろな想い出があり、大方の人は歳をとるほどになつかしさが増してくるものです。おじいさんやおばあさんのこと、お父さんやお母さんのこと、一緒に遊んだ友達やその街角や山河のこと、お祭りやとんど等の行事のこと、学校のこと、等々、いろいろなことが走馬灯のように浮かんできます。そのようななつかしさは、いろいろな想い出によるものですが、そのような環境が、自分自身を育み、その人の人間形成に重要な役割を担い、今の自分の性格や思考の基礎は、この時の経験や環境により大きな影響を受けているので、余計になつかしさを感じるのではないかと思います。


そして、お父さんやお母さんの故郷がどこであれ、子供たちの故郷は、今育っているこの三次なのです。私たち大人を育んでくれた故郷があるように、子供たちを育んでくれる故郷は三次なのです。その子供たちに、大人になっても、すばらしい故郷であるためには、友達や地域の人たちとの関わりや行事への参加、自然との関わりを積極的に深めてやりたいものです。特に、地域の人たちとの関わりを多く経験することは、自律心と責任感のある子供にと成長させてくれます。学校と家庭だけでは子供は順調に育たないのです。
次の頁の「畦道」は、昨年記した、冊子「歳時記」の原稿です。私の故郷への思いを感じて戴ければ幸いです。

合奏(平成9年度)12月

私ごとですが、11月は教育学会や論文の提出等でなかなか幼稚園に帰ってこれず、先生たちと電話やファックスで連絡は取り合ってはいたものの、子供たちの顔が見れない寂しさとともに、あの子はどうしているだろうか、この子は元気で来ているだろうかと気になりながら過ごしていました。


やっと、27日の夜遅く帰ることができ、28日の午前中に、子供たち全クラスの合奏をはじめて見たのですが、心配は一度に吹き飛んでしまいました。あんなに甘えていた子も、何かあるとすぐに泣いていた子も、すました顔をして堂々と合奏しているではありませんか。私の顔をチラッと見て、ニコッとしながら、「だいじょうぶだよ」と合図を送ってくれます。どの子も、みんな、そんな目の合図をしてくれるのです。今までにない、物静かで落ち着いた雰囲気で、堂々と演奏しています。演奏しながら、どの子も、私の方に、チラッとサインを送るのです。みんなニコニコしています。演奏が終って、「どうだった?」と子供が私に尋ねるのです。やっと判りました。そうなんです。今日は練習ではなかったのです。園長先生と典子先生に聞かせてくれていたのです。


「明日は園長先生と典子先生が大学から帰ってきてだから、演奏して聞かせてあげようね。みんなすごく上手だから、きっとビックリしてたよ」と、先生たちが子供に話してくれていたのです。胸がジーンとしてきます。
最初にうめ組の演奏を見ました。もも組と間違うぐらい大きく感じるのです。ついこの前、入園してきたばかりなのにと思いながらも、その堂々とした姿に、友達関係意識の深まりとともに、幼稚園での生活に自信を持ってきていることを強く感じます。
続いて、もも組の演奏は、1年の成長の差をしっかりと感じさせてくれ、その落ち着いた姿は、「自分たちは、もう、何でもできるよ」と言っているかのようです。なんと、ちゃんと曲になっているではないですか。何よりも、とても楽しそうに、ニコニコして演奏している姿をうれしく思いました。
最後に、さくら組の演奏です。いつもは園庭で元気いっぱいに遊んでいる子からは想像できないくらい物静かで、自分たちの楽器を準備しながら、先生の指揮を待ちます。先生が何一つ指示しないのに、自分の役割をちゃんと理解していて、黙々と楽器を運び、支度をしています。だれ一人として騒いでいないのです。子供が本気になっているときや集中しているときは、騒いだりふざけたりしないのです。そして、曲の演奏に入りましたが、曲の中に、子供たちの心を感じ、涙が浮かぶほど感動しました。


もう一つ感動したことがあります。
それは、先生たちの成長です。子供たちの成長とともに、先生たちも大きく成長してくれているのです。新しい先生も、ベテランの先生も子供たちの関わりの中から、子供の本質を学び、望ましい保育のあり方を求め、時には議論しながら、時には本を読みながら、あるいは、悩みながらと、一歩一歩と成長してくれているのです。離れたところから見ると余計にはっきりと感じるのです。本当に子供たち一人ひとりの特性や成長を大切にしてくれている姿が伝わってきます。


合奏は、自分だけではできません。自分勝手に演奏をすると、ガチャガチャになります。その分、おのずと合わせることに集中します。それは、相手に対する思いやりと協力の姿となって現れてきます。それは同時に、自分の担当している楽器が、どれひとつとっても、重要な役割をしていることに気付き、自分の役割への責任感も生じてきます。


そして、段々と曲をきれいに演奏できるようになるにつれて、その喜びも増し、もっといい音を出そうと心がけ、相手の音を聞きながら、自分の音を探していきます。そうして、段々と曲に感情が入っていき、音楽の楽しさやすばらしさを感じるようになってくれるのです。子供たちの演奏を聴いていて、何よりも楽しそうに、自信を持って演奏してくれている姿を一番うれしく思いました。それには、先生たちが、子供に負担をかけたり強制しない方法で、本当に自由な雰囲気の中で取り組んでくれていることも見逃せません。自由な雰囲気の中にこそ、子供の興味や意欲を高めることができるからです。


そして、子供たちがすごく仲良しで、友達思いであることをうれしく思います。もうすぐ、音楽発表会です。このようなことも、頭のすみに入れていただいて、聴いて頂ければ、感動も違ってくるのではないかと思います。

作ること(平成9年度)11月

親子でいろいろなものを作った10月18日の「親子のふれあいデ-」はいかがでしたか。子供たちがうれしそうに、楽しそうに過ごしている姿はもちろんのことですが、お父さんやお母さんがすごく楽しんでされている姿がとても印象に残っています。もちろん我が子と一緒に作っているということの喜びもいっぱい感じられての楽しそうな姿ではあるのですが、「作る」ことそのものの行為から味わうことのできる楽しさが、お父さんお母さんの楽しそうな様子として、見ている方に伝わってきたのだと思います。


「作る」という行為は、相手(対象物)に変化を与えることなのです。砂場の砂に変化を与えいろいろな形を作ったことも、段ボ-ルや竹を使って、隠れ家や竹馬、ぽっくり、拳玉等を作ったことも、白紙の模造紙に絵の具で等身大の大きな絵を描いたことも、石鹸や水から大きなシャボン玉を作り出すことも、対象物に変化を与え、その対象物そのものの姿とはまったく違った物を作り出す行為なのです。その対象物に変化を与える行為そのものが「創造」の世界なのです。


では、そのように対象物に変化を与えることがどうしてそんなに楽しいのでしょう。
難しい言い方になりますが、心理学の立場からいう、「有能さ」と「自己決定的」からくる喜びなのです。
砂や竹や段ボ-ル等の素材の持っている固有の特質が、その人の心に働きかけ、それに誘発されて、手に取り、イメ-ジを広げ、そのイメ-ジにそって変化を与えようとします。自分の持つイメ-ジにそって対象物に変化を与えていく(作り上げていく)課程の中で、自分で考え、判断し、決定し、作り、またイメ-ジを広げ、考え、判断し、決定して作り上げていきます。この心の働きを繰り返しながら、完成させていきます。このように、自分でイメ-ジしたことを、自分の意志で決め、自分で変化を与えることができている、できたという、自らが造り出しているチャレンジを征服することができるとき、「有能」で「自己決定的」であると感じることができるのです。そのことが、心の快感となり、喜びとして、楽しさとして感じるのです。そして、それをやりとげたことにより達成感を味わうのです。


「親子のふれあいデ-」でしたことは、確かに先生たちが企画したことではありますが、その企画によって子供や保護者の方が何かを作りはじめた(これを外的要因により動機づけられた行動といいます。)訳ですが、そこに準備されていた、その対象物に対して心を動かし、対象物を選び、それぞれのイメ-ジにそって作り上げていかれた行為は、自分自身の、自らの心の働きなのです。自分の心にイメ-ジを呼び起こし、そのイメ-ジにそって自ら造り出した目的(目標)にチャレンジし、征服(完成・達成)したことにより、快い刺激を受け、満足感を覚えるのです。(これを内発的動機づけによる行動といいます。)


作ることの楽しさやすばらしさはここに有るのです。その喜びが自らの自らへの報酬なのです。そして、その行為を通して、結果として、様々な能力や感情を発達させていくのです。
子供たちの「あそび」も同じなのです。遊びを通して様々な能力を獲得し、感情を発達させていきます。遊びこそ、子供の内発的動機づけの最たる、自発的な行為なのです。子供の自発的な遊びの経験の内容の豊かさこそが、能力や感情の豊かさにつながるのです。

しかしながら、今日の子供を取り巻く環境は、「あそび」を否定的にとらえる風潮が強く、以前は、地域での子供たちの異年齢集団の中で、遊びの伝承や発展が有りましたが、今では、異年齢集団もほとんど崩壊してしまいました。そのため、子供たちの豊かな遊びが消えていき、特に幼児や低学年の子供が上級生から様々な遊びや能力獲得していく機会がほとんど有りません。このことを補うためには、教師や親が意識的にその環境を造り出し、時には伝承し、豊かな遊びを取り戻してやらなければなりません。


そのためには、自発性を尊重するためにも、子供たちに「やらされている」という思いを持たせさないように仕掛けることがとても大切なのです。仕掛けなくても、子供自ら遊びを造り出すことは、最も得意とするところですが、幼児は生活経験が少ないだけに、ましてや、地域の異年齢集団がないだけに、十分な遊びを経験しないまま通り過ごしてしまいます。望ましい経験をさすためのきっかけを仕掛けてやることが大切なのです。

お手伝い(平成9年度)10月

子供が小学校の高学年や中学生になっても、家事の手伝いを全然してくれないと嘆いているお母さんの話をよく耳にします。お母さんがどんなに忙しくしていても、体調が悪くても何一つ手伝おうとしてくれないのです。「たまには手伝いなさい!」と叱っても知らん顔するか、反抗的な態度をとるのです。そういう子供がずいぶんと多くなってきているような気がします。何故でしょう。


多くの場合、幼児期から小学校低学年のころの子育てのあり方に原因しています。皆さんも度々経験されると思いますが、3歳4歳頃になって、お母さんがしていることと同じことをしたがります。お母さんが料理をしたりアイロンかけをしていたら自分もしてみたいのです。ところが、たいていの場合、茶わんを落としたり汚したりしますから止めさせてしまいます。アイロンもやけどをしますから禁止します。まだまだ幼いですから、かえって邪魔になる方が多いので、「遊んでなさい」ということになります。ここのところを大切にして欲しいのです。

せっかく子供が興味を示しているのに止めさえてしまうと、のちには、なんの興味も示さなくなります。その子の能力に応じた対応をしてやることが大事なのです。お肉を炒めているのを見て、子供もしたがったら、お母さんが補助役にまわって、少しぐらいさせてやれば良いのです。その時に、ガスを勝手に使ったらとても危険であることを知らせるのです。アイロンかけをしたがったら、アイロンの熱さを知らせるために水を少しつけ、「ジュッ」となるところを見せて、危険を知らせてから、少し熱のさめるのを待って、子供のハンカチ程度のものにアイロンをかけさせてやるのです。洗濯物をたたんでいると子供もしたがります。きれいにはたためませんが、せめて自分の下着だけでもたたませてやると、とても喜んでやります。お父さんが日曜日に車を洗っていると子供も洗いたがります。一緒に洗うと子供はとってもうれしいのです。


幼児の頃には、毎朝、新聞を入れることを仕事にしてやることも良いでしょう。オモチャの片付けでも良いでしょう。そして、小学生になったら、子供部屋が有れば、自分の部屋は自分で掃除をさせるのです。


このようにしていると、子供の成長とともにいろいろな手伝いをしてくれるようになります。小学生にもなると、本当のお手伝いができるようになります。そのお手伝いを通して家族の一員としての自覚が強まりきずなが深まるのです。中学生になったのだからと急にさせようとしても、もう遅いのです。


家事の手伝いは家庭教育としての大きな役割を担っているのです。子供の人格形成に大きな役割を果たしてくれます。子供の生活力を育てることにもつながるのです。家庭での役割を持って育った子供は、家庭外での役割をも自信を持ってやり遂げます。勉強も仕事も自分の役割を考えて主体的に関わる力が育まれているのです。


登校拒否を起こした子供の多くが、家事の手伝いをほとんどしたことがないといわれています。その理由の多くに、お母さんが勉強することばかり要求し、成績第一主義に陥り、手伝いは勉強の邪魔になると手伝わすこと無く育てたことによるのです。そういうふうに育てられた子供は、思春期をうまく乗り越えられないことが多いのです。そして、突然に勉強しなくなったり、反抗的な態度をとるようになったり、不良になったりすることさえも有ります。

家の手伝いをしっかりして育った子供は家族の絆がしっかりできていて、家族での団らんも多く、自発性が育っていますから自分から進んで勉強をするようになりますし、思春期も正しく乗り越えていきます。そういえば、今の若い人たちの中に、料理のできない人がたくさんいます。料理のみならず、りんごの皮すらむけない人が大勢います。ナイフも包丁も使ったことが無いのです。子供のときから「手伝い」の経験が無いのです。手伝いをしっかりして育った子は、家族で食事をとることの楽しさをしっていますから、男女を問わず、料理も積極的にするようになるのです。
私たちは子供たちが幸せな人生を歩んでほしいと願って子育てしているはずです。家事の手伝いも、幸せな人生を過ごすことのできる能力を育んでいるのです。子供と一緒に家事をしている楽しさをしっかりと味わってほしいのです。きっと、子育てしていることの幸せを実感してもらえると思います。