昆虫採集(平成8年度)10月

先日、いも掘りをしました。子供たちは、いっぱい、いっぱい掘って大満足です。
いも掘りが終わる頃、ふと見ると、草むらにいる昆虫を採ることに夢中になっている子供たちがいます。バッタやこおろぎ、カマキリやへびも捕まえている子もいます。その時の子供は真剣そのものです。まさしく、中央幼稚園の子供たちです。カマキリは頭と釜を上に向けて抵抗しますが、子供たちはすばやく捕まえます。女の子が「これなあに」と茶色の幼虫を手に持ってきました。残念ながらその幼虫の名前を失念しましたが、多分、大きな蛾の幼虫だと思います。下半分を持って「右向け右」というと上半分(頭側)が動くやつです。お父さんお母さんの子供の頃もきっと遊ばれたことが有ると思います。「右向け右」と言うと動くので、その子はその幼虫をずっと持って「右向け右」と言いながらみんなに見せてまわっていました。そう言えば、こんな遊びもほとんど見られなくなりました。自然の中で遊ぶことの少なくなったことで、最近は事情がずいぶんと変ってきているのです。


先月、こんな新聞記事を見ました。《ある中学生が『どうしてこんなにいじめられなきゃならないのか』って、昆虫の専門家のところへ泣き付いてきました。この少年は夏休みにたくさんの昆虫を採集し、標本にし、自由研究として学校に提出しました。標本は満足のいく出来で、友達や先生にほめられることさえ予想をしていたのですが、結果はまったくの逆で『かわいそうだと思わないのか』『殺虫鬼』などと罵詈(ばり)雑音をあびせられたというのです。そこでこんな状況をなんとかしようと日本昆虫協会の専門家や愛好家、自然保護委員会委員長の川上洋一さんらが立ち上がったのです。


日本で自然や動物の生息環境の悪化が心配され始めたのは1960年代後半。以降、「自然保護礼賛」の考えが世間に広がると同時に「昆虫採集=自然破壊」のイメ-ジが大人から子供にまで定着してしまった。昆虫の繁殖力は採集量の比ではないので、実際、採集によって昆虫が減っているという事実はないのです。「採集は悪」という短絡的な考え方を解きほぐして理解を求め、「ムシ屋」が受け入れられる土壌を広げようと、初夏から秋にかけてはチョウやトンボをはじめ昆虫の採集・観察会や生息調査、飼育教室を開催しています。


採集や標本は研究目的や自然の産物の蓄積という意味も有りますが、「あらゆる種類の感情を味わえるのが最大の魅力」だといいます。「虫採りに挑む、どきどきした気持ちや手に届かないもどかしさ、人に先を越されたくやしさ、ねたましさ。やっと捕まえた喜びは格別。標本にしても、手を下して殺すときはやはり心が痛むし、それでも手に入れたいと複雑な思いが交差します」と自身の体験を追想しています。こうした感情の体験こそ、今の子供に必要で、豊かな人間性の育成に結び付くのです。
自然体験の乏しさと合わせ「虫にさわれない子供」が増えています。親や教師、とくに小さい子供にかかわる女性の昆虫観が影響して、「虫ぎらい」人口を増幅させているのだと案じています。


「小学校の生活科などで野外に出てきた子供たちによく出会うが、ほとんどが草花中心で虫採り網を持った集団は見たことがない。といって採集至上主義者ではない。直接触れなくても、自分なりの好きな方法で虫に関わればいい。ただ、その機会を保証してやりたい。」と話しています。》 

皆さんは、この記事を読まれてどのようなことを感じられましたか。自分の子供の頃にはセミやトンボ、バッタや蝶など夢中になって採っていませんでしたか。そして今、子供がセミやバッタを捕まえていると、「可愛いそうだから離してやりなさい」とすぐに言っていませんか。
子供は、好奇心を持つと、捕まえたいのです。採集したり飼って見たいのです。乱暴に扱ったり餌を忘れると直ぐに死んでしまいます。これらに関わる中での心の葛藤が大切なのです。子供たちが夢中になって遊べる環境と時間を保証してやりたいものです。

我慢すること(平成8年度)9月

幼稚園が夏休みの間、プレイル-ムの子供たちは毎日幼稚園に通ってきました。
休みの間、研修会等で忙しくしていて、たまにしか子供たちと遊ぶことができませんでしたが、夏休みの終りに近づいたある日、園庭で遊んでいた男の子が、木にとまっているセミを見つけて「園長先生!セミとって!」というので、そっと近づき、手で捕ると「園長先生スゲ-!」といってくれましたが、その途端に、「頂戴、頂戴」と、たくさんの手が伸びてきました。結局は、最初に見つけて「捕って」と頼んだ子に渡しました。すると、もらえなかった子が、すかさず、「いいもん、ぼく、家にカブト虫もってるもん!」と、強がりをいいます。他の子数人も「ぼくももってるもん」といっています。子供たちはそのように強がりをいって、もらえなかった悔しい思いをコントロ-ルしているのです。そうすることで我慢することを覚えるのです。自制心を獲得しているのです。


そう言えば、最近は『我慢をする』という経験をすることが少なくなってきたように思います。欲しいと思ったものはたいていの場合は買ってもらえますし、兄弟姉妹が少ない分、奪い合いになったり、わずかしかないものを分け合って食べるということは日常の生活では余り見ることがありません。その結果、欲しいと思ったものはすぐ「買って」ということになり、買ってもらえないと機嫌をそこねます。今有るものを工夫して使えるかもしれないとか、他の方法はないだろうかとか考えようともしません。ましてや、苦労なしに手に入れたものには愛着も少ないですから、直ぐに飽きますし、粗末にもします。


ものが十分でないからこそ、我慢することを覚え、欲求を自制することができるのです。そして、その欲求や必要性や興味が強ければ強いほど、他のもので代用しようする知恵や創意工夫する能力が育つのです。我慢することも思考力や創造力を育む大きな基となるのです。


話は元に戻ります。
「そう、カブト虫を持っているの。いいな、いいな」というと、他の子が「園長先生、カブト虫の幼虫はなにを食べるか知っている?」と聞きます。「さぁ、なにを食べるのかな? 土の中にいるから、土を食べるのかな?」というと、それを聞いていた3歳の女の子が「わたし知っている!ゼリ-を食べるんだよ。」……………「?」……………
そう言えば、今年はじめて、カブト虫やクワガタ虫用のゼリ-を売っているのをお店で見ました。私の年代の者から見たら思いもよらないことでした。カブト虫はデパ-トにいるものだと思っている子が増えていると言われ出してだいぶ経ちます。魚も、魚屋さんで売っているのは食べられて、海にいるのは食べられないと思っている子もいます。


子供たちは生活の中での様々な経験を通していろいろなことを理解し、獲得していきます。「ゼリ-を食べるんだよ」といった子は、お兄ちゃんが飼育しているカブト虫にゼリ-を与えているのを見ていたのです。だから、カブト虫がゼリ-を食べるという答えも間違いではないことになります。3歳は3歳なりの経験の中での理解の仕方をしているのです。


そして、成長とともに生活経験も深まり、その中で理解を深め、幼虫は腐った葉っぱ(腐葉土)を食べ、成虫は木の汁(樹液)を吸うことを理解していきます。そしてゼリ-は飼育用に作られた人工の餌であったことも分かってきます。
子供たちがいろいろなことに興味を示し、経験をしながら理解を深めるための重要な役割をするのが好奇心なのです。


お子さんは、この夏休みをどのように過ごされましたか。きっといろいろと楽しい経験をいっぱいして一回り大きく成長されたことと思います。
夏休みは、大人になっても懐かしく思い出すほどのすばらし経験ができるよう、夏の自然が子供たちの好奇心に呼び掛けてくれるのです。今日から二学期が始まります。夏から秋、秋から冬への季節と自然の変化も子供たちの好奇心をくすぐります。

ルールづくり(平成8年度)8月

子ども達が友達とグループで遊ぶには、自分勝手にすると遊びが成立しません。
年長組の子ども達が、ペットボトルをバットにして軟式のテニスボールで野球に夢中になっています。そばを通りかかると、「園長先生!ピッチャーをして!」と誘ってくれます。すぐその気になって一緒に始めました。ところがところが、守備はピッチャーの園長一人なのです。組長(園長)と子どもの対決だというのです。
それでも、子ども達の打ちやすいように真ん中に投げてやりますので、みんなよく打ちます。あっちに走りこっちに走りしながら、孤軍奮闘です。見ていると、ルールの分かっている子は数人で、ファゥル、ストライク、ボール、アウトの判定は、一人の子がしています。その子が野球のことを一番よく知っているようで、ファゥルかどうか微妙なところで、その子がファゥルと言えば、みんなそれに従います。
その子の判定によってこの野球が成り立っています。そうしながら、ほかの子も段々とルールを覚えていっているようです。
やっとスリーアウトにして、園長がバッターです。ところが、すごいスピードで投げてきます。ピッチャーとキャッチャーの距離が短いので、なかなか打てません。少しゆっくり投げるよう頼んで、ランニングホームランです。ホームランにしないと、一人ですから次の打者がいません。ところが、一周してホームベースに帰ると、次のバッターが何人も並んでいるのです。まだ、ルールがよくわかっていないのかと思ったら、どうも、そうではなく、この野球は、打ちたい者が打って、投げたいものが投げることで野球が成り立っているのです。
ピッチャーも適当なところで替わって、打つ方にまわっています。チェンジがないのです。


サッカーもよくして遊んでいます。
このサッカーも、かなり上手な子がいて、その子達がリーダー役となり、遊びが成り立っています。そのサッカーにも時々加わって遊びますが、私が入ると、やはり、組長と対決だと言って、園長一人で戦わなければなりません。これはかなり本気でやらないと負けてしまいます。老体で両方のゴールを行ったり来たりしなければなりませんのでヘトヘトになるのです。このサッカーも子ども達なりのルールがあって、遊びやすくなっています。両サイドのラインは無く、周りの障害物にぶつかるまで蹴ってもいいのです。野球もサッカーも自分たちの遊びやすいように自分達なりのルールを作っているのです。


年長組の子ども達が中心になって遊んでいるのですが、時々、年中や年少の子が加わります。「いれて」というと、「いいよ」と迎え入れてくれます。ところが、野球にしてもサッカーにしても、小さい子は上手く出来ません。それでも、決して邪魔者扱いにはしません。年中組の子がピッチャーをしたがるのでやらせています。ところが、ボールはバッターの方ではなく、何回投げても一塁の方に転がるのですが、それでも、本人が満足するまで投げさせてやっています。サッカーにしても、年長組の子の蹴るボールには付いていけません。見ていると、わざわざ年少組の子のところにゆるく蹴ってやっているのです。


子ども達のルールは、ただ、遊びやすくするためのルールだけでは成り立っていないことが分かります。思いやりや寛容の精神も大きな役目をしているのです。その気持が有るからこそ、子ども達の、幼児期の、集団遊びが成り立っているのです。
異年齢ではもちろんですが、同年齢の子でも、運動能力の差はずいぶんと有ります。生まれ月によっては、1年もの差が有るのですから、当然なのです。その差をお互いが認め合いながらしているからこそ、遊びが成り立っているのです。人は一人ひとり違います。個性も有り考えも違います。その違いを認め合うことはとても大事なことなのです。
こうして、友達と楽しく遊ぶことによって、人間関係を深め社会性を育みます。相手を認め、いたわり、尊敬することも遊びの中で学ぶのです。

思いやりと科学する心(平成8年度)7月

梅雨の頃になると、子どもたちが、昆虫や魚捕りに夢中になります。幼稚園の保育室には、子どもたちの見つけてきた、小動物や昆虫がいっぱいです。 ザリガニ、メダカ、どじょう、おたまじゃくし、水カマキリ、ふなに金魚、そして、かたつむりやてんとう虫、くわがたやカブトムシの幼虫、といろいろいます。蟻やハムスターを一生懸命飼育しているクラスも有ります。


これらのほとんどは、子どもたちがそれぞれに持ってきてくれたものです。子どもたちは、お家に帰って、近くの野原や小川、池などで、お父さんやお母さんに連れて行ってもらい、捕ってきたものです。ザリガニを釣ったり、かたつむりを捕ったりしたしたことなどを、しきりと話してくれます。


幼稚園の庭でも、子どもたちは、虫探しに夢中です。園庭に有る小川ではアメンボや水カマキリを見つけることが出来ます。園庭の隅や園舎の横の方には、かたつむりやてんとう虫やバッタも時々見つかることが有りますが、子どもたちが一生懸命探しているのは、だんご虫(わらじ虫の一種)です。手のひらや牛乳パックを虫かごにして、いっぱい見つけてきます。お母さんからは気持ち悪いと言われるかもしれませんが、子どもたちには、だんご虫が、そっとしておくと歩きだしたり、触ると丸くなって身を守るのがおもしろいのです。


ザリガニやおたまじゃくしを飼育している子どもたちは、その生態についても、とても詳しく知っています。ザリガニが交尾する様子や卵を産んだり脱皮する様子や昼寝をする姿もしっかりと見守っています。
子どもたちにとっては、新鮮な体験で、興味津々なのです。これらの小動物や昆虫、魚などを捕ることから始まって、飼育することに夢中になるのは、子どもたちの好奇心を大いに刺激してくれるからなのです。そして、それらは子どもたちに驚きや感動とともに、もっと知りたいという「科学する心」を育んでくれているのです。


子どもたちが蜘蛛(くも)やカマキリや何か気持ち悪いものを捕ってくると、「キャー」と奇声を発せられるお母さんもいらっしゃると思いますが、そこは我慢です。その声で、子どもは興味を一度に失ってしまいます。
先日、ふだん、すごくおとなしい年長組の女の子が、「園長先生、これ見て!」と手のひらを開いて見せてくれました。なんと、やもりの死骸です。やもりよりも、その子がやもりの死骸を手に持っていることの方が驚きでしたが、そう言えば、その数日前に、すずめの子が、屋根の巣から落ちて死んでいるのを見つけて、土に埋めて、墓を作ってやっていたのもその子でした。そして案の定、「やもりのはか」と型紙に大きく書いて、園庭の隅に埋めていました。


興味を示す対象も人それぞれに違います。捕まえるのを得意とする子、水の中の生物に興味を持つ子、昆虫にすごく興味を持つ子、水槽の水を毎日替えてやることに一生懸命な子、昆虫よりもハムスターの飼育に熱心な子、生きものよりも、朝顔や野菜などの栽培に熱心で、いつも水やりをしてくれている子と、それぞれ興味の対象や関わり方が違います。


今まで、ザリガニにはほとんど興味を見せず、触ることもできなかった女の子が、クラスでザリガニ釣りに行ったとき、自分で釣ったのがとても嬉しかったらしく、お家で一生懸命飼育しています。そのようなとき、お母さんも嫌がったり面倒くさがったりしないで、見守ってやって下さい。何かに夢中になることは、その子の能力をしっかりと伸ばしているのです。


ザリガニが脱皮するのも感動的です。栽培していた植物や野菜に花が咲くのも感動です。自分たちが一生懸命世話をしていればいるほど感動が大きいのです。 そうして、一生懸命飼っていても、時々、死んでしまいます。一生懸命水やりをしていた花や野菜も枯れたり、小屋から抜け出した山羊が食べてしまったことも有ります。今度は、死なないようにもっと注意をはらっています。枯れないように、水やりの調整をしています。


一生懸命育てていただけに、死んだり枯れたときの悲しみは大きいのです。そのことが、また、心を育ててくれているのです。
自分の不注意で死んでしまったことも、いたずらが過ぎて死んでしまったことも、心の痛みとして残ります。
その心の痛みが、命を大切にする心や思いやりの気持ちを育み、楽しく遊んだ思い出が、川が汚れるのを悲しみ、自然を大事にする人へと成長するのです。


「命を大切にしよう。」と口で言っているだけでは、本当に命を大切にする子には、なかなかなりません。様々な経験の中から、身体を通して学んでいくのです。
小学校の高学年や中学生になって、理科の勉強をしなさいと言っても、なかなか興味を示してくれない子がたくさんいます。その原因の多くは、子どもの時、自然の中で夢中になって遊んだ経験が少なく、あるいは、「気持ち悪い」「汚れるから」「そんなことばかりしてから」と、飼育したり採集したりすることをやめさせられた経験から来ています。


子どもが夢中になってしていることは、興味が有るからなのです。楽しいからなのです。子どもの能力や特性を育むには、その好奇心や楽しさを十分に保障してやることです。
子どもは、好奇心の塊なのです。それを満足させてやることが、知識欲や探求心につながり、将来、勉強しようとする意欲や態度が育つのです。
幼児期は、直接体験を通して、大きく育つのです。物事に挑戦したり、友達と仲良く遊ぶ友達関係意識や思いやりの気持ち、勉強する意欲や生活の態度は、幼児期に大きく育まれ、その人の人間性となっていくのです。
子どもにとって原体験となる生活経験をしっかりとさせてやって下さい。

子供の優しさ(平成8年度)6月

5月のある日、年中組のクラスで男の子が泣いています。しばらく様子を見ることにしました。BくんがAくんに「ごめんね。ごめんね。」と一生懸命、言っています。それでもAくんは泣き続けています。「ごめんね。ごめんね。」とBくんが許してくれるよう、何回も何回も嘆願しているのに「うん」と言ってくれないので、とうとう、Bくんも泣き始めました。廻りに数人の子が様子を見に集まってきました。「どうしたん?」とCくんがBくんに聞いています。「あのね。あのね。ボクが後からAくんを押したら転んで泣きだしちゃったんよ。じゃけ、ごめんいっとるのに許してくれんのんよ。」と言って、また、泣きだします。


今度はAくんに向かって聞いています。「ほんまに後から押されたんか?」「うん。」「まだ、いたいんか?」「ううん。」と首を横に振ります。「いとうないんじゃったら許しちゃれーよ!」とCくんが言うと「うん。」と言って首を立てに振りました。
「Aくんがウンいうたけ、あんたも泣くのをやめーや!」とCくんが促すと、Bくんが「Aくんごめんね。」ともう一度言うと、Aくんも「うん。」と言って二人とも泣きやみ、何事もなかったかのように、もとの遊びを一緒に始めました。


初めて集団生活をする子どもにとっては、一つの遊具で一緒に遊ぶことの経験が少なく、その遊具を独占しようとしてトラブルとなることがよくあります。
このようなトラブルは、子ども自身で解決していきます。今回のように、友だちが、あいだに入って解決することもあれば、自分の欲求と相手の欲求のぶつかりあいの中から、何回もトラブルの経験を通して、お互いの気持ちを理解する能力や相手を思いやる気持ちが培われ、一緒に遊ぶ楽しさを獲得していきます。


先日、卒園後、広島に転勤で引っ越された家族の方が訪ねて来られ、一緒に来た2歳の男の子が、園庭で野球をして遊んでいる年長組のところに入ってきて、ボールを捕りたがっています。それを察した男の子が、ボールを転がしてやっています。それを拾った2歳の子がピッチャーのつもりで投げています。それを見守っている年長組の子どもたちの笑顔が素敵でした。年長組にもなると、遊びの邪魔と思うこともなく、受け入れてくれているのです。


幼稚園の中で、このような優しい場面は、いろいろと見ることができます。いまでも、年少児の手をつないでお部屋に連れていってくれている女の子や、動物に餌をあげるのを手渡しやっている子、などといろいろあります。
子どもの優しさはどこから来るのでしょう。それは、お父さんやお母さんを始め、まわりの人から優しさをたくさんたくさん受けてきているから、その子に優しい心が育つのです。特に幼児期に優しさをたくさん受けて育つことが、情緒の安定と人格形成において、何より大切なのです。