段々と秋の深まりを感じるようになって来ました。朝晩の寒さが、猛暑だった夏の記憶をすっかり塗り替えてしまうようです。これから深まる秋も子供達とたくさん楽しみたいと思います。
さて、先日、病院に行った時の事です。若いお母さんが二人、やっと歩き始めたばかりのような子供をそれぞれに連れて待合室で話をされていました。どうやら“ママ友”のようでした。一人のお母さんが、「最近、目が離せなくて大変!叱ってばかりで疲れてしまうわ。」するともう一人のお母さんが「あんまり、あれしちゃダメこれしちゃあダメ!って言わない方がいいみたいよ。だから私は、いけない事をしても、その中で褒めてあげられる所をみつけて褒めてあげてるよ。」と子育てについて語り合っていました。褒めて育てようとされている事がその会話からよくわかりました。私は、しばらくこの母子の様子を見ながら自分の順番を待っていました。すると、二人の子供が退屈してきたのか、ソファーによじ登り、棚に置いてある本や置物を一つずつ手に取っては落としていました。その様子にお母さんは「あらあら、力持ちだね。凄い凄い!」「こんなに高い所に上がれるようになったんだね。凄いじゃない!」とその子を褒めてあげていました。そのお母さんは、叱らないで子育てをしたいのですから…。待合室にいたのは、私だけではありませんでした。それが、まだ良し悪しの分別がつかない赤ちゃんだから他の患者さんは目をつぶってくださっているだけで、それは、見ていて決して心地良く思えるものではありませんでした。
それから別の日、また病院に行くことがあり、今度はその時よりもっと小さな赤ちゃんを連れた若いご夫婦と待合室で順番を待っていた時の事です。その赤ちゃんはハイハイができて、畳の部屋の小さなスペースをゴソゴソ動き回っていました。いたずら盛りです。お母さんのバッグから、財布や鍵を出しては舐めたりポイポイ投げたりしています。そのお母さんは、その度に、優しく「コラコラ!これは、ママの大事大事。ちょうだいね。」と取り上げました。その度にその子はママの顔を見上げます。何度も何度も同じような事をしていました。すると、急に「危ない!!メッ!!よ。」というお母さんの声がして、赤ちゃんがその声に驚いてママの怖い顔をジッと見てその後泣き始めました。どうやらコンセントのプラグを舐めようとしたようでした。
私はその時、以前見た、叱らないで子育てをしたい母子の事を思い出していました。勿論、子供は、叱られるより褒められる事に心地良さを覚え褒められる事で、自分に自信を持ちながら成長できるのは確かだと思います。しかし、この世の中には、良い事と悪い事が入り混じって存在しています。それを正しく分別つけながらその中で自分も正しく生きていかなくてはならないのです。お父さんやお母さんの顔つきや声色を窺いながら、(これは、どうやらいけないのかもしれないぞ)と赤ちゃんなりに感じるのです。だから、お母さんが「メッ!!」と怖い顔をするとキョトンとして固まったり泣いたりするのです。そうしながら、注意されたり叱られたりする事の意味を感じてくれるようになるのです。命に関わる危険な事や人の迷惑になるような事には、真剣に目を見て「いけない事なんだよ」と教えてあげる事は必要だと思うのです。何でもかんでも世の中に通じる許される事ばかりではない事もわかる子になると思います。
幼い子供達はまだ経験が豊富でなく、判断能力や自分をうまく制御する事が確実にはできないので、幾度となく“わがまま”や“喧嘩”“人に迷惑をかける言動”“危険行為”に出てしまいます。そんな時、本気で叱ってくれるのは、我が子に良い事と悪い事の判別が正しくできる子になって欲しい!と願っているお父さんやお母さんです。“褒めて育てる”…は“叱らないで育てる”…というのとは違います。“褒める(認める)”と“叱る(諭す)”のどちらも必要なのです。「しつけだと思ってやった。」と痛ましい虐待のニュースが時々報道されます。本当に胸が締め付けられる程辛いニュ-スです。その背景には様々な問題はあるのでしょうが、“叱る(諭す)”の根っこには、『愛』がなくてはいけないのです。「僕のために叱ってくれている。」「私の事を思ってくれている」という事が感じられる接し方で褒めたり叱ったりしてください。そうしながら、親子の絆や信頼関係が深まります。まだまだ、幼児期は可愛いものです。この子達が思春期を迎える頃には、今以上の心配事が必ず発生します。この幼児期に親子の信頼関係をガッチリ築いておかないと、褒めても叱っても心を開いて聞いてくれなくなります。大きくなって、どんな社会の中でもしっかりとした人としての生き方ができる子になって欲しい──そう思います。
幼稚園生活の中でも、子供達はいろいろな事を経験しています。子供達に聞いてみてください。どんな優しい楽しい先生でも、子供達の事を一度も叱った事のない先生はいないと思います。子供達は怒らない先生が好きなのではないのです。心で抱きしめて叱ってくれる、自分を正しく導いてくれる先生に心開くのです。勿論、そうなるには、共に築いてきた揺るぎない信頼関係があればこそです。
こんな事を書きながら、10年以上も前のある出来事を思い出しています。涙を流しながら一人の男の子を叱ったあの日の事……。
この事については、また次回綴りたいと思います
2012年10月31日 4:14 PM |
カテゴリー:葉子先生の部屋 |
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ある日の某新聞“くらし”のページに『幼稚園「同窓会」』という題でコラムが掲載されていました。家族で出かけた帰り道、大学を卒業するようになった年齢の息子とその兄弟が通った幼稚園に急に立ち寄ることになり、懐かしい先生やその先生が弾いて聴かせてくれる歌に久しぶりに触れ、大きな園児達の小さな同窓会を楽しんだ。…という内容のものでした。
私はこのコラムを見て、迎えた幼稚園の先生の立場に自分を置き換えて読み、胸が熱くなりました。私達の幼稚園にも、よく卒園児達が人生の節目節目に幼稚園を懐かしんで、訪ねて来てくれます。色々なきっかけで来てくれるので、その子達の年齢も置かれている状況も様々です。進学が決まった事…、就職や結婚を機に日本を離れるようになった事…、結婚をして赤ちゃんが生まれた事…、大学生活を終えてまた三次に帰って来た事…、それらの報告をしに来てくれる子もいれば、丁度幼稚園の前を通りがかって、寄ってみたくなったからと来てくれる子もいます。幸い(?)三次中央幼稚園の先生達は、長年勤めている先生が多く、その子達の事を知っていたり担任していた先生がいたりして、その歓迎ぶりは凄いのです。自分が通っていた頃の先生がまだ居てくれたという子供達の感動や、年月を経ても懐かしんで足を運んでくれたという先生達の感動とが一緒になり、それはそれは思い出話は尽きません。
色々な懐かしい子供達が訪ねて来てくれますが、ある事がきっかけとなり、今なお、頻繁に幼稚園に来る男の子がいます。男の子と言っても、もうあの頃の面影も無いほどの22歳の身体の大きな子です。彼が年中組の時に担任しました。その子が幼稚園に足を運んでくれた始まりは、高校受験に悩み、人生が面白くなくなっていた頃の事です。お母さんと一緒にいた彼にばったり会い、「幼稚園に遊びにおいで」と声をかけた時からでした。照れくささからか、「来たよ」と一言言ってふてくされたような風貌で職員室に来ました。それでも、彼を知る先生達は大歓迎でした。理事長も園長も皆大切な可愛い卒園児として迎え入れてくれました。今の彼がどんな境遇にありどんな様子であっても、彼自身の中に宿り育った物はあの頃のまま彼の中にあるという事を認めてくれる先生達ばかりだからです。彼は今、自分に合う仕事を見つけ一生懸命働いていて、仕事が休みの日に時々顔を見せに来ます。2学期が始まったばかりのある日、突然「今から行く」とメールが届きました。同じ卒園児の友達を連れて来てくれたのです。その子も年中組の時私が担任した男の子で、東京の大学に行っています。2人は、幼稚園の子供達とも遊んでくれたり、降園前に満3歳児クラスで子供達に絵本を読んでくれたりして人気者になっていました。「遊んでばかりいないで、園庭にホースで水まきしてよ。」と頼むと、2人してブツブツ言いながらも2本のホースで園庭を湿らせてくれました。しばらく様子を見ていると段々と幼いあの頃に戻ったように、水の掛け合いを始めていました。「やめろや!!」「お前が先にかけたんだろう!!」と大きな身体の2人が無邪気に言い合ったり大声で笑い合ったりしているのです。大人になって、遠い土地で、私達の知らない悲しみや喜びを経験していたり、社会の厳しさに一喜一憂しながら頑張っているこの子達が、あの頃のように無邪気な笑顔でこの幼稚園の庭で遊んでいる姿に感慨深いものがありました。
その後、「園長先生から花壇に植えてって頼まれた。」と言って2つの花を持って来ました。鳥谷芽似先生も2人に加わっていました。実を言うと、芽似先生も年中の時彼らと同じクラスで私の可愛い教え子です。彼らは、芽似先生に会える事も楽しみにしているのです。
3人が花壇に肩寄せ合って植えかえているその様子を見て、時が逆戻りしたような気持ちになり、何やらこみ上げてくるものがありました。
以前「これ見て。」と何冊かまとめられたあの頃の“れんらく帳”を持って来ました。お家の方と私との一年間の連絡の記録です。良い事も悪い事も連絡し合い、ひたすら彼の成長を願う気持ちがたくさん綴られていました。彼はこのノートを大切にしまっていると言いました。幼稚園での色々な思い出や経験、友達や先生との他愛もない小さなやりとりが、彼らの心の隅っこの引き出しにしまわれていて、時々引っ張り出して自分をその頃に置いてみたくなるのでしょう。新聞のコラムに書かれていたのと同じように、彼も殆んどの友達の個人マークやその頃歌った歌や演奏した曲、遊んだ事、手遊びや参観日によく見せてやっていた手品等など…そんな事?と思うような事まで覚えているのです。
しばし幼稚園で時間を過ごした後は、いつもぶっきらぼうに「じゃあね」と言って帰って行きます。その大きな背中は、来た時と何か違って見えるのです。子供達にとって、幼稚園での可愛い思い出は自分が守られていた時の温もりを思い出させるものなのでしょう。そして、その温もりに触れる事で、また頑張ろう!と背筋を伸ばして自分の今の世界に戻って行けるのだろうと思います。
今の園児達にも一つでも多く、大きくなっても浸りたくなる思い出をつくってやりたいと思います。さあ!2学期は、子供達の心に残る経験をたくさんします。ずっと、覚えていてくれるかな?そして何年後かに、嬉しい事があっても悲しい事があっても「先生!来たよ!」と訪ねて来てくれる…、そんな幼稚園でありたいと思うのです。その頃は、すっかりおばあちゃんだな。
2012年9月27日 3:16 PM |
カテゴリー:葉子先生の部屋 |
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長い長い夏休みが終わりました。皆さんはどのような夏を過ごされましたか?夏休み前に計画されていた色々な事は実行できたでしょうか?私も、娘達が小さかった頃はあれもしてやりたい、あんな所に連れて行ってやりたい、こんな事を一緒にしたい……とあれこれ計画をたて、夏休みを過ごしていましたが、大きくなって、土曜日や日曜日でも学校のクラブ活動や友達同士での計画そして少しだけ勉強に…と忙しくなり、なかなか親子で過ごす時間がとれなくなりました。段々と親離れしていく事を実感しています。
さて、幼稚園では、預かり保育の子供達も色々な経験をしながら過ごしました。異年齢での関わりが自然にでき、年少組を年長組や年中組が可愛がる姿や年長組のお兄さんやお姉さんを見習ったり、時には年齢を超えて兄弟姉妹のように喧嘩をしたりして賑やかに楽しい夏休みを過ごしてくれたと思います。そんな預かり保育の年長組の中でちょっとした事がブームになっていました。
休日に家族で出掛けて手に入れた観光地や人気スポットのパンフレットを持って来ては皆で開いて見合うのです。アミューズメントパークのパンフレットを見ては、アトラクションやキャラクターの話で持ち切りです。お土産や買ってもらった物などの話でも盛り上がります。そんな中、四万十川の観光パンフレットを持って来ていた男の子がいました。その他にも別府や飛騨高山のパンフレットもありました。高速道路のサービスエリアや人からもらったりして手に入れたらしく、地図のページを見ては一生懸命私に説明してくれるのです。「四万十川ってどこにあるの?」と聞いてみると「それはねぇ…」と日本地図を開いて「ここの四国地方の高知県を流れているんだよ。」と説明してくれました。沈下橋や川下りの話等もしてくれて驚きました。中国地方のロードマップを見ては、「ここが出雲だよ。神社がある所。」と迷わずその場所に指を差します。私は、「○○君はよく知っているんだねぇ。葉子先生は方向音痴なの。教えて欲しいんだけど、長崎県はどこ?大阪府は?愛媛県は?」とランダムに聞いてみたところ、ほとんどの場所を正しく教えてくれました。広島県の地図を開いては、「広島空港はね、え~っと、ここが三次だから…この道を通って…え~っと、この道から…あった!あった!ここが広島空港だよ。飛行機のマークがあるでしょ。」と道をたどって教えてくれました。きっと出掛ける度に地図をみてはご家族でいろんな話をされているのでしょう。お母さんにそんな話をしたところ、「そうなんです!なんだか好きみたいで、いつもパンフレットを見てるんです。親も思ってもみなかった事に目覚めて地図で調べたりして…。」と言われていました。子供は、まだまだ知識が豊富ではないので、知りたい事見たい事やりたい事には、一生懸命に情報収集しようとします。そして得た情報を何とかして使おうとします。パンフレットを持って来て話を聞かせてくれるのもそうなのです。人は皆、赤ちゃんの時から、気付き、調べ、確かめ、認識するという事を積み重ねながら成長していきます。赤ちゃんが自分の握りこぶしをじ~っとみつめ、口に持っていきしゃぶりますが、それも、自分の身体の一部に気付き認識し、それを使って生きるための準備なのだと言います。子供達は興味を持てば、積極的になぜ?どうして?と聞いてきます。少し大きくなれば自分で調べようとするでしょう。確かめようとするでしょう。その姿勢は、いずれ様々な事に繋がっていくと思います。大人になったら、学問からの知識も得て、なかなか、自ら興味を持った事に食いついて調べたり確かめたりするという事をしなくなります。時間的にもできにくくなって来ます。必要に迫られて…という事の方が多いのではないでしょうか?それでも、新しい知識として身につきますが、子供の知識を吸い取るパワーと大人のそれとでは勢いが違うのです。
先日、娘が、夜中に地図帳やJRやバスの時刻表やインターネットで何やら一生懸命調べていました。「明日から、福山にクラブ遠征に行くから、競技場までの行き方を調べているの。朝8時過ぎには必ず着いてないと大会に間に合わないの。」──初めての場所へたったひとりで行くというのです。たかが福山、されど福山……。私は、そんな事は初めて知らされたので、びっくりしたのとその呑気さに呆れたのとで、「そんなの間に合うわけないでしょ!お父さんに送ってもらいなさい!」と言いました。娘は、「いい!調べてみる。」と言い、ずっと調べ続けていました。「JR福塩線でも3時間はかかるよ。疲れるから、お父さんに…」とそこまで言うと、主人が「放っておいてみろ。自分で調べて何とかしようとしてるんだから。」と、私を止めました。娘は、時刻表をみて府中駅で乗換えがある事や、福山駅の構内地図をみて在来線到着位置からどうやってバス乗り場に行けばいいのかという下調べまでしていました。次の朝、娘は自信があるのか、自分が得た知識を試せる事への期待からか、晴れ晴れとした顔で「行ってきます。」と言い、私は、心配なまま三次駅に送りました。それから約3時間後『着いたよ。意外とあっという間だったよ。』と娘からのメールが来ました。そのメールに娘のたくましさを感じました。余計な口出し…親バカ反省!
未来をたくましく生きて行く準備中の子供達の事が、頼もしく羨ましくなります。
2012年9月3日 9:05 AM |
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1学期が、今日で終わりました。アッという間だったように思います。新しい環境に慣れる事に精一杯だった新入園児にとっては…そして、その保護者にとっては特に早く感じられたのではないでしょうか?さて、明日から長い夏休み。一緒に過ごせる時間を普段より少し濃く関わってみてください。幼稚園の経験で、どれ程、子供達が成長しているかを感じるいい機会だと思います。
幼稚園の1学期は、新しい環境に慣れ親しむ事が最初の目標です。色んな経験の中で、相手の事を知ったり自分の事を知ってもらったりしながら、先生や友達との信頼関係を築きます。この1年間の基盤をつくっていくのです。そんな環境の中でさらに個の力や想いを発揮させ個々を磨き合います。
先日、こんな場面に出くわしました。ある朝の登園時間、私がテラスを歩いていると年長組の数人の子供が「葉子先生!○○君が鼻血出てる!ちょっと来て!」と走って呼びに来ました。保育室に行ってみると、一人の男の子が転んで鼻血を出していました。床にもポタポタと血が落ちていて、子供達が集まっていました。その男の子はクシャクシャに丸めたティッシュで友達に鼻を押さえてもらっていました。可愛いキャラクターの模様のあるティッシュでした。友達が思わず、自分のポケットからティッシュを差し出してくれたのでしょう。私は、止血のために、子供達に代わって鼻をつまみました。すると、ある男の子が「先生が来てくれたからもう大丈夫だからな!」と励ましてくれました。そして、またある男の子は、汚れたティッシュを捨てるためのゴミ箱をせっせと運んで来ていました。そんな様子を嗅ぎつけて、他のクラスの子供達がたくさん集まってきました。すると、別の男の子が「見ないでください!見てあげないでください。」「はいはい、早く自分らのクラスに戻ってくださーい!」と、人の整理を始めました。そして、ふと見ると、一人の女の子が自分のティッシュで、少し離れた所の床に落ちている血をしゃがんで拭いてくれていました。なんて素晴らしいチームワークなんだろう、と微笑ましく見ていました。友達を心配して、たくさん集まって来ても、それだけでは何も助ける事はできません。その状況の中で、自分には、何ができるかと考えて行動に移せる子って凄いと思うのです。特に感心したのは、床の血を拭いてくれていた女の子──、その子は少し離れた所で人知れず間接的に友達を助けてくれていたのです。
私はその女の子を見て、ある事を思い出しました。私が京都の幼稚園に就職して1年目の時の事です。毎朝先生達と一緒に園庭を掃除していました。みんなほうき片手に掃き掃除をします。するとそのうち、若い先輩の先生がちりとりを取りに行かれました。そして、ゴミ箱を持って来られる先生、草取りを始められる先生……とみるみる間に、先生達がそれぞれに違う事を始められたのです。そんな様子に相変わらずほうきを持ったままの私はうろたえていました。そんな私の気持ちを察知されたのか主任の先生が、「葉子先生、いつまでもみんなと同じ事をしていたらアカンのよ。みんなより一つ二つ先の事を考えて動かなアカンのよ。それが、仕事するっていう事やで。」と声をかけてくださったのです。掃き掃除をするのなら、そろそろちりとりがいるだろう…、そうなったらゴミ箱がいるかな?ゴミの量によっては一輪車がいるかな?──とその先を考えて行動する事、今の自分は何をしなくてはならないか、何ができるかを考えて動く事、それを教えてくださいました。社会人にならないとそれがわからなかったのかと言われれば、お恥ずかしい話ではありますが、何かのために、誰かのために…と直接それに携わらずとも、いろいろ気をまわし密かに働く事やそうできる人の奥ゆかしさが、とても美しく見えてハッとさせられたのでした。
今の自分には何ができるだろうか?今のその状況を見て、それなら私はこうしよう、次はこうしよう…と自分で考えて行動に移せる子は凄いと思います。
頼まれた事しかしない、頼まれないと、指示がないと動けない人にならないように、心と頭のアンテナをピンと張って生活していれば、色んな事にも興味が湧くし、たくさんの物事を心のシャッターで捉える事ができると思います。子供達が心と頭のアンテナをピンと張るには、嬉しい事、悲しい事、楽しい事、辛い事等いろいろな事を経験させて、その都度大人が、その事に気付かせてあげる事だと思います。そして、子供の心を揺さぶり、自分ならどうするだろう?私はこうしたい、僕ならこうする、という想いを自由に持たせてやる事が大切だと思うのです。そうしていくうちに自分で行動に移せる子になっていくのではないかと……。
床の鼻血を拭いてくれていた女の子のお家には、つい最近赤ちゃんが生まれました。お姉ちゃんとしての大人には見えないプレッシャーもあるかもしれませんが、彼女は、家族の中で…家族の一員として何かをしたいという気持ちをいっぱい持っている子です。きっとお家でも、今の状況をお父さんをはじめたくさんのご家族の方と一緒に支え合って毎日を過ごしているのでしょう。そして、家族の姿そのものを彼女の心のシャッターはしっかり捉えているのだと思います。
2012年7月18日 5:54 PM |
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6月になり、衣替えと同時にプールあそびが始まりました。いよいよ夏到来です!天気の良い日は朝から外あそびが盛んで、保育室の中には、ほとんど子供がいません。靴を濡らしながら小川のアメンボを捕まえようとする子、さっき着替えたばかりの体操服や手足を泥だらけにしながら泥だんごを作っている子、汗をいっぱいかきながらサッカーをして遊ぶ子等、春の頃の子供達のあそび方やその様子とは随分違ってダイナミックに遊べるようになってきたのがよくわかります。子供同士の繋がりが深まってきたせいでしょうが、やはり夏は子供達にとって魅力あふれるあそびが思いっきりできる季節だからでしょう。水・土・空・生きもの……これらの全てが、子供達のあそびの味方になってくれます。そして、開放感を味わい心を解きほぐします。思いっきり遊ぶので、帰りの園バスの中やお家の方のお迎えを待つ保育室では、コックンコックンと眠ってしまう子が増えるのもこの頃です。いっぱい遊んでいっぱい笑って……そして居眠りしている子供達の姿がとても無邪気で可愛いです。
プールも天気の良い日は毎日入ります。それまでは静かに控えていたプールが一気に夏の主役に躍り出た感じです。水着の入ったプール袋を持って来た子は、得意そうに、「今日はプールに入れるんだよ!」と見せてくれます。しかし、その日体調が悪い子達は、水着も持って来ないので、プールには入りません。ですが、その子達もプールの時間は園庭でたっぷり遊びます。担任の先生は、プールあそびに行きますが、そんな子供達は他の先生や友達と遊びます。それはそれで楽しそうです。私もその子達と遊ぶ事があります。
年長組のプールあそびの時の事です。何人かが集まって、砂場で何やら必死に穴を掘ったり、水を入れたりしていました。「何をしているの?」と聞くと「温泉を造ってるんだ!」と言いました。「葉子先生もしていいよ。」と誘ってくれたので、一緒に遊ぶ事にしました。どうやら、山のてっぺんから温泉が湧き出て、山の尾根を流れ下の大きな池の中に熱い湯が溜まるという設定らしく、山を作る子と穴を掘る子とに分かれていました。その中には、現場監督らしき子もいて、「おーい!水が足りない!汲んできて!」「そこじゃあないよ!ここに水を流して!」と指示を出します。「じゃあ、俺は、こっちをするよ」「もっと深く掘ろうや」「しっかり固めないと!」とスコップやバケツを持って、それはそれは、工事現場さながらの様子でした。その威勢の良さと子供達の目の輝きに誘われるように、私も毎日砂場で遊びました。しかし、砂場は、その子達だけが遊んでいるわけではないので、いい感じに出来て来ても、次の日に行ってみると壊れている事もあるのです。それを修理(?)しながら、毎日その温泉づくりは続きました。掘っていく内には、埋まっていた砂場の道具が出てきたり、頭上の藤棚の葉っぱや枝が埋まっていて、それを見つけるたびに「あっ!!宝が出てきたぞ~」と盛り上がります。
そんな様子を見ていくうちに、自然に、子供達の中で役割分担ができているのに気がつきました。“山造りチーム”の中でも、現場監督さんをはじめ、砂を高く盛りあげていく子・スコップの背で叩いて固める子・尾根を作る子…がいました、“温泉造りチーム”の中では穴を掘る子・その穴の壁を固める子・さら粉を集めて山や池にまぶす子・水を運ぶ子…等、いろいろな係ができていました。山の尾根から流れる水が温泉の穴まで、勢いよく流れないと、「もっとこの道のこっち側を深くしないと流れないよ。」と気づき、傾斜を作りました。山が崩れないようにとさら粉を砂山にまぶし、しっかり固め、その上に水をかけてまたさら粉をまぶす…これを繰り返したら山がカチンカチンに固まる事に気づきました。子供達はいろいろな発見をしながら遊んでいます。どうしたらもっと楽しくなるか、こうしたらいいかな?これではどうだろう…と。子供達が「いいこと考えた!」と言う度に「それは、いい考えだ!天才だね。」と共感してやりました。子供達は「天才」という言葉に弱いようで、認めてもらうと益々がんばろうかなと思います。こんなやり取りが子供達をたくましく粘りのある子供に育てると思います。
そして片づけの時間になった時です。「よし!お片づけをするぞ~!」と現場監督さんが声をかけると、他の子供達は作業をやめて、砂場の道具を片づけ始めました。それから「明日もこれ使うから一番上に片づける方がいいぞ。」とか、「こっちに山を作る人の道具で、反対側は温泉を作る人の道具…、っていうのはどう?」という声があがりました。私は、思わず「あそびの天才は片づけの天才!」と言いました。“明日また遊ぶため”の“今日の片づけ”をしていたのです。いかに効率よく温泉造りができるか、そのためには、片づけでさえ工夫が必要だという事を感じたのでしょう。すごい!!と思いました。あそびに集中していると、先を見通してまで考えることができるのかと感心しました。そして、その片づけでさえ楽しげなのです。その次の日もまた温泉造りをしていました。前の日に遊びやすく片づけていたので、すぐに温泉造りにとりかかる事ができたでしょう。あそびや生活を工夫することは、遊びやすく生活しやすくするという事なのです。それを考える事だって子供にとっては『あそび』なのです。
『あそびの天才は、片づけの天才』──子供達の頭と心はいつも働いています。
2012年6月29日 5:49 PM |
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投稿者名:ad-mcolumn
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