暑い夏に木陰をつくり子供達の身体を優しく包んでくれた園庭の木々の葉が冷たい風に舞い落ちる季節になりました。イチョウの木の下は黄色い絨毯(じゅうたん)のようにも見えるほどです。葉が落ちた木々を見上げると少し寂しくなりますが、春の準備を始めているのだと思うと、この趣もなかなかいいものです。
そう思いながら、朝の園庭にいると年長組の保育室から、鍵盤ハーモニカの音が聴こえてきました。よく聴いてみると12月に行われる“フロアーコンサート(音楽発表会)”で年長組が演奏する曲でした。出来ないから練習しているのでも、先生からしなさいと言われたからでもなく、何人かの友達で集まって弾いて遊んでいるのです。これまでにしてきた楽器別・パート別の練習があそびになっていました。きっかけは、“フロアーコンサート”に向けての、先生の指導だったけれど、それから自分達でどんどんモチベーションをあげ、自然に「もっと上手になりたい」「もっと弾いて楽しみたい」と思うようになってきます。そうしながら、子供達はどんどん技術を磨き挑戦する事を楽しみながら上達していきます。そんな何日かを過ごし、いよいよ先日からホールで合奏の練習を始めました。年中組・年長組は合奏、年少組はお遊戯を発表します。これまでに、フロアーコンサートを経験している子供達も、今年初めて経験する子供達も、ホールのステージでの練習はとても楽しみにしていたようです。それもそのはず、先生達が、ホールに行って練習する事をもったいぶって話すからです。「キラキラステージで踊れるよ」とか「ホールで大きな楽器を使って合わせてみるのが楽しみだね」等と、毎日の練習が楽しみになるように話します。また、「頑張って練習して、ステージで演奏しようね。」と話す事によって“ホールに行くこと”が目標になるのです。それからは、子供達の意識の中で“いつものホール”が“憧れのホール”に変わります。早くホールのステージで踊りたい!演奏したい!とウズウズしてくるのです。
ある年少組の男の子が、ホールでの練習を明日に控えた日、降園前に、先生から「明日は、いよいよホールのキラキラステージで踊るから楽しみに幼稚園に来てね」と言われ、家に帰ってからもその事を嬉しそうに母親に話し、翌朝も楽しみに幼稚園に来たそうです。その子は、やっと行く事ができた“憧れのホール”のステージで笑顔いっぱい嬉しそうに踊っていました。年中組・年長組もまた、ホールに入って来る時の顔つきがいつもと違っていました。普段は、お誕生会でにぎやかに楽しく過ごすホールが、“憧れのホール”で、“神聖な場所”になっているのです。だから、そのつもりでホールに集まる子供達は、いつもと少し違い、整然と並び、静かに歩いてやってきます。そして、練習のスタンバイをします。
ホールに行く時の心構えや、挑戦しようとするいい緊張感が子供達の心に宿ります。子供達はこの空気を楽しみます。私は、たとえ幼い子供であっても、今この場所はどんな場所か、自分がどうしないといけない場所なのかが分かり、そのように振る舞えるようになってほしいと思います。いつもいつも同じ空気、同じ気持ち、同じ自分ではなくて、その場に応じて自分の気持ちを切り替えられる子になってほしいと思うのです。その空気の中だからこそ味わえる喜びや楽しみや感動があるのです。この空気こそが子供達にとって“神聖な場所”なのです。そんな場所をつくってやることは大切です。
“神聖な場所”を楽しめるのは素敵な事だと思います。
戸外あそびで大はしゃぎをした気持ちのままがどこでも通用するかといえば、そうではありません。小さな子供だから仕方がない…ではないのです。年長組の子供達が毎月一回行っているお茶会でも、5歳6歳の子が席入りをする顔つきは、いつもと違い神妙な面持ちです。それだからと言って苦痛なのではなく、みんなその神聖な空気を楽しんでいます。そこに身を置く気持ちをどのように切り替えればいいのかを分かっているからです。ここはどんな所か、ここではどんな事がありどう行動するべきなのか、どうする事が周りの人にとっても自分にとっても良いのかということを話してやれば、ちゃんと分かって行動できるのです。それは、その子にとって賢い人になる一歩につながると思います。
これまで、保育室で練習してきた事をこの”神聖なるホール“で、力いっぱい出し切る事を夢見て頑張ろうとすることができる子供達はすごいと思います。”神聖なる“…なんて大げさかもしれませんが、小さな子供達にとっては、幼稚園のホールでさえ、やり方や考え方次第では、大切な場所としてひとつの目標にする事ができるのです。
本番のフロアーコンサートでは、ステージに立つ子供達がそんな気持ちで臨む姿を、きっと頼もしく思っていただけるのではないかと思います。どうぞ、楽しみにしていてください。
やるときゃやる!!そんな子供達を応援してやってください。
“神聖なるホール”に響き渡る大喝采は、子供達をまた一回り成長させてくれる事でしょう。
2011年11月30日 11:00 AM |
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この10月は、私達の周りで様々な秋の行事がありました。町のあちらこちらでも、華やかな神輿(みこし)をかつぐ声や鐘の音が賑やかな秋祭り、学校や町の人達による文化祭、そして幼稚園でも秋季大運動会から始まり、イモ掘りや秋の遠足、また、先日は保育参観「ちゅうおう祭」を行いました。実りの秋・芸術の秋・~の秋…と色々な事を言いますが、それらの楽しみや喜びを味わうには大変良い時節です。
幼稚園の遠足には私も全学年の引率をしました。春の遠足の事を思い出しこの半年間の子供達の成長を実感しました。子供達にとって集団生活の中での半年はとても大きな時間である事がわかります。密に関わりを持ちながら生活をして行きますから、楽しい事も悲しい事も経験します。友達との関わりでも色々な事が起こります。それらを通して、子供達は少しずつ大人になる準備をして行くのです。
先日、こんな場面に出会いました。年長組での昼食時、子供達と一緒に食べようと保育室に行った時の事です。お当番の子二人が自分の昼食の準備をした後、前に出て「いただきます」の挨拶をしていました。他の子供達はお当番の号令に合わせて食べる準備を進めます。その間、お当番の子のお弁当やコップや椅子を隣の子がきちんと整えたり、席に戻った時にすぐに食べられるように、準備をしてあげたりしていました。それはとても自然な優しさに見えました。クラスの中でそうしてあげる事がルールになっているわけでもなさそうでした。私はその後もお当番の子とその隣の席の子を見ていました。挨拶を終えて、席に戻ったお当番の子は、自分が準備した時よりもお弁当やコップがきれいに整えてあるのに気付き、「わー、誰がしてくれた?ありがとうね」と周りの子を見ました。すると、隣の女の子が「うん」と一言言い、にっこり微笑みを交わしたのです。特にそれが大きな話題にもなるわけでもなく、そこには、柔らかな空気がほんの一瞬漂っただけでした。私もあえて「ちいちゃん優しいんだね」と声をかけませんでした。二人の間では、ちいちゃんの気持ちは十分に伝わっていたのですから…。また、その子にとっても、その行為は極々自然な気持ちのままだったからです。「やってあげた」という得意な意識を持っていた訳ではなさそうでした。多分、いつか誰かにそうしてもらった事があって、その時に嬉しかったりありがたかったりした経験がその子の心を動かしているのでしょう。相手の子の「ありがとうね」と喜んで言ってくれた一言でまた二人のいい関係が繋がっていくのです。
我が家の娘が小学校の時の事です。私はいつも、学校から帰る娘のスリッパをすぐはけるように玄関に並べて仕事に出かけていました。すると、ある日の夕食の時、「玄関のドアを開けた時、自分のスリッパが自分の方に並べて置いてあったら、お母さんがいなくても、おかえり!って言ってくれてるような気がして嬉しい。」と言いました。そんなふうに思ってくれていたんだと知って嬉しかったし、そうしてやっていて良かったなぁと思いました。なんでもない事ですが、私の気持ちは伝わっていたのです。
人は皆、相手の気持ちに気付いたり気付かれたりしながら、いい関係をつくっていきます。「ありがとう」はそのための美しい言葉だと思います。気付いて欲しくて優しくしている訳ではないのですが、だけど、された側はその気持ちに気付かないと…、当たり前の事として通り過ぎてしまい、次は自分もそうしてあげようと思う子にならないのではないでしょうか。
親子の間には、親から子へ向ける「優しさ」があります。手を差し伸べたり、言葉をかけたりする「優しさ」がいつの間にか、子供にとって無感動な“当たり前の事”になっているかもしれません。特に、幼い時にはなかなかそれを親から自分への「優しさ」だと気付く事はできません。親子とはそんなものなのかもしれませんが、何かの時に「お父さんって…お母さんって優しいね」と気付かせてやる事はお父さんやお母さんの愛情に気付く事になります。
また、逆に子供達からの「優しさ」にも、気が付いてやって欲しいと思います。「ありがとう。嬉しいよ。」「ありがとう。気持ちいいね。」と、どんな気持ちがしたかを伝えてやってほしいのです。自分がしてあげた行為で、相手がどんな気持ちになったのかを知る事で、喜びを感じさせてやってください。子供がしてくれる事は、ほんのささやかな事かもしれません。しかし、ちょっとした事でも人を嬉しくさせたり、楽しくさせたり、元気にさせたりするものなのだという事を小さな頃から実感させてやって欲しいと思います。それは、そのまま子供の世界でも、したりされたり…気付いたり気付かれたりのやりとりができるようになれば、集団の中でもみんなといい関係をつくっていける子供になってくれるような気がします。「ありがとう」の言葉や気持ちが飛び交うような世界ができるといいなと思います。
これは、子供と子供、親子の間の事だけではなく、夫婦の間でも言える事かも……ですね。
ドキッ!…それが、なかなか難しい…。
2011年10月31日 10:53 AM |
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すっかり秋らしくなってきました。空の色、風の匂い、鳥や虫の声…色々な変化がこれまでと違う空気を感じさせてくれます。
黄金色の稲穂は秋の風にゆっくりと揺れ、毎年忘れずに私達の目を楽しませてくれるコスモスの花が道端に咲き始めました。私の大好きな季節です。
今月の初めに年長組が稲刈りを経験しました。5月に自分達で植えた苗が見事な黄金色の稲に姿を変えました。年長組の田植えは今年で9回、稲刈りは7回目です。2回は稲刈りを見送りました。幼稚園の子供達に慣れない刃物を持たせて稲刈りをさせる勇気が私達になかったからです。最後の収穫までを経験させたいのにさせてやれないジレンマや、なぜその後経験させる事になったかという経緯は、幼稚園のホームページ『葉子先生の部屋』平成18年の10月版「あぶないあぶないがもっと危ない」を読んでみてください。
私は、子供達が稲を刈る時の嬉しそうな顔を見ると、させてやれなかった数年間の事をいつも残念に思います。鎌は普段使う事のない刃物で、もしかしたらその時初めて見る子もいたでしょう。子供達は、その鎌の使い方や刈り方の説明にじっと聞き入っていました。子供達の中には、「やりたくない」とか「できない」と尻込みをする子は一人もいませんでした。した事のない経験には興味があるからです。ましてや、自分が植えて育った苗ですから、ぜひ自分の手で刈りたいと思うでしょう。ひとり3株の稲穂を刈りました。初めの1株は、傍で付き添う先生も子供も緊張した面持ちでした。だけど、その“緊張”も危険な物を扱う時にはとても必要な時間なのです。そして、2株3株と刈って行くうちに、子供達はいかに安全に刃物を使って刈る事ができるか…と思案し要領をつかんできます。子供達はひょっとすると大人より飲み込みが早いのかもしれません。刈り取った稲を持ちあげる子供達の顔は喜びと自信で溢れていました。毎日食べるご飯の正体を知った事にも大きな意味があったでしょう。
その日、稲を何本か新聞紙にくるんで、一人ひとりに持ち帰らせました。お迎えに来られたお母さんに「これ!」と見せる時の得意気な顔はとても可愛く思えました。それから、何人ものお母さん方に、「先生、これはどうしたらいいんでしょう?」と尋ねられました。たった数本の稲ですから、お家でも思案された事でしょう。その翌日のお昼、職員室にある男の子が、「失礼します!」とやって来ました。その子の手には、一つのおにぎりがありました。「これ、昨日のお米でお母さんが作ってくれたんよ」と言うのです。「えーっ!!どうやってお米にしたの?」と聞くと、「お母さんが剥いてくれた。」と言うのです。そして、また翌日にその子のお母さんに直接聞いてみると、「夜なべをして剥いたんです。折角子供が喜んで刈ってきてくれたんだから…と思って。」とニコニコと笑いながら話してくださいました。一粒一粒手で剥くなんて、そう簡単な事ではありません。大量ですと、昔の米つきの方法で、一升瓶と棒を使ってもみ殻をとる事もできますが、少量だとそれもできません。さぞかし、時間をかけられた事だろうと思いました。しかし、その時のお母さんの中には、我が子がとびきりいい顔で刈った様子を想像したり、得意気に持って帰ってくれた気持ちに応えたいという想いがあったりして、きっとそれは、我が子との居合わせずともできる共通体験をされたのではないかと思います。
また、数日後ある年長組の保護者の方から手紙をいただきました。そこには、稲刈りを経験して持って帰った稲穂からもみ殻を子供達と一緒に剥き、玄米で姉弟と分けて食べた事、玄米に魅せられて家でのご飯も玄米にして欲しいとリクエストが出た事、食べられる事のありがたさや食べ物や作ってくださった方々への感謝の気持ちを育てていきたいと思った……等々が書かれてありました。
なんて素敵なお母さん方でしょう。その他にも、子供達が持ち帰った稲穂を飾り、稲刈りの一日の話を家族で聞いたり、稲穂が揺れる田んぼを見ながら思い出し色んな話をしてくださったりした事でしょう。そうしてもらえた子供達はなんて幸せだろうかと嬉しくなりました。子供達がした楽しい経験を共に喜んだり感激したり考え合ったりしてやって欲しいのです。共感しながら、その時の喜びや感動を確かなものにしてやって欲しいのです。子供達が経験するその時は一瞬です。一瞬の感動が一瞬のうちに消えてしまうか、その感動を更に深く確かなものに、そして、その一瞬の感動がその子にとって生きる土台となる大きなきっかけになるかは、子供達がした経験をいかに大切に育ててやれるかだと思います。子供達が経験した事がそれっきりにならないように……、やりっぱなしではなく、経験を繋いでやってほしいと思うのです。そうすれば、子供達はもっと生活の中で色んな経験をする事を楽しみにしてくれるでしょう。好奇心も育つでしょう。子供達は好奇心のかたまりです。まだまだ子供達はいろんな事に興味を持って挑戦して生きていきます。私達大人は、その気持ちの高ぶりをいつも応援してやりたいものです。
それからしばらくして、子供達が刈ったお米を精米し幼稚園に届けました。そのお米でおにぎり作りをしました。自分達で握って作ったおにぎりは最高の味だったに違いありません。
2011年9月29日 10:24 AM |
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長い夏休みが終わりました。こんがりと陽に焼けた顔と背中の水着の跡で、楽しかった夏の思い出がうかがえます。今年の夏は格別に暑く、熱中症のニュースが毎日聞かれました。
そんな中、ずっと心から離れなかった事…東日本大震災の被災地と被災された方々の事です。あの大地震から6ヶ月が経とうとしています。当時は不安と寒さに震える被災者の事を思い胸を痛めましたが、今は真逆です。原発事故により節電を余儀なくされ、仮設住宅で暑さに耐えておられる多くの方々の姿が報道されます。私達が想像するに余りある大変な生活を送っておられます。しかし、今は被災地の人達は、一生懸命前を見て復興に向けて頑張っておられます。「もう振り返ってはいられない!前を向いて!前を向いて!」という底力を感じさせられます。この震災により、各地での様々なイベントが自粛ムードになりました。しかし、今は、自分達が出来る事は何だろう?とそれぞれの人が考え、被災地を励ます活動がいろいろと行われています。お盆前には、うつむいてばかりではなくみんなで上を見上げて生きて行こう!と花火が打ち上げられたそうです。「心傷ついた人の一瞬の笑顔のために…」という主催者の言葉が聞かれました。各地からたくさんの人達がその地を訪れ、同じように、「笑顔になってもらえるように…」「その時の笑顔が明日への一歩になれば…」という気持ちで支援活動をされているのです。
笑顔は当たり前にできるものだと思っているけれど、どんなに尊くありがたいものかを幸せであればある程私達は忘れがちです。実は悲しかったり苦しかったりする時こそ、笑顔が必要なのかもしれません。そう思えば、子供達の笑顔は宝です。子供達は、楽しい時や嬉しい時に自然と笑顔を見せてくれます。気持ちが沈んでいる時に子供達のそんな笑顔に救われたり励まされたり元気をもらったりする事がありませんか?何があっても子供達が傍で笑ってくれていると、この笑顔を失いたくないし、失わせたくない!と力が湧いてきます。
甲子園球場では、全国高校野球選手権大会が行われました。高校球児達の雄姿には毎年心を打たれます。苦しい場面でこそ、選手の気持ちが沈まないようにと声を出し合ったり、笑顔で励まし合ったりする姿がたくさん見られ、とても爽やかな気持ちになりました。特に、東北勢の選手達が笑顔で頑張るその姿は被災地の人にとって、大きな力となりました。その笑顔によって周りの誰にも、前向きな気持ちが湧いてくるのです。「元気をもらいました。ありがとう!くよくよしていても始まらない。私達も頑張ります。」「前向きな気持ちになれそうです。」という言葉がたくさん報道の中で聞かれました。
日々の生活においても、「この子の笑顔のためなら!」と親は一生懸命子育てをしています。「笑顔が見たいから」と子供達と向き合います。その事によって、みんなが幸せになるのです。そして、子供達もまた、お父さんやお母さんからの笑顔を期待している事も忘れないでください。子供は自分に向けられた笑顔によって安心したり喜んだりします。「お母さん!見て!見て!」と嬉しい事があったり、感動した事があったりすると、共感してほしくて大人を呼ぶ事があります。そんな時に笑顔で応えてやるのと無表情で見るのとでは、子供のその後の反応が大きく違ってきます。笑顔で応えてやると、もっともっと積極的にその事に取り組めたり探求したりしようとします。逆に期待通りの反応がもらえなかったら、子供はそれから次に踏み出す気持ちになれなくなってしまうのです。反応に表情がなかったり、険しい顔だったりすると、この人が何を考えどのように思っているのかが伝わって来ませんが、それが『笑顔』であれば、そこには嬉しい・楽しい・共感・受容等のプラスの感情が伝わって来ます。『笑顔』には、言葉では伝えきれない“感情の伝達力”があるような気がします。笑顔になると、自分も相手も楽しくなります。そして、周りの空気も明るくなります。そして、そこから前に踏み出す元気や勇気や意欲を与えられるのです。
この夏休みには、東日本大震災の特集や終戦66年の報道がたくさん見られました、この国や町そして人の気持ちの復興を支えているものは、“『笑顔』を再び!”と思う強い願いだという事を痛烈に感じました。全国高校野球選手権大会では、ピンチになる度にピッチャーを取り囲む球児らの顔には必ず『笑顔』が見られました。苦しいはずのその場面で共に励まし合うのです。そこには、壊れそうな崩れそうな気持ちを奮起させてくれるエネルギーが起こります。また、固まりそうな気持ちをほぐしリラックスさせてくれる優しいエネルギーがその場を包んでくれます。『笑顔』は楽しかったり嬉しかったりする時に自然に出る表情だけれど、逆に元気になるために…周りの『笑顔』を誘うために『笑顔』を見せる事も大切なのだという事を感じたのです。私達大人も毎日元気で優しい笑顔を子供達に向けていく事が、将来の子供達の豊かな心を育てていくのです。
さて、この2学期もたくさんの子供達がいろいろな『笑顔』を見せてくれる事でしょう。その『笑顔』に感謝しながら皆が心も身体も元気でいたいものです。
2011年9月1日 10:15 AM |
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梅雨が明け、山々の緑が一層濃く見えます。耳をすませば、セミの鳴き声も聞こえ、いよいよ夏らしくなってきました。
先日、幼稚園の先生の結婚式が行われ、先生達大勢で招かれ出席しました。その先生の旦那様は実は卒園児です。私も、年中組の時に担任しました。その頃の彼の事を思い出しながら、メインテーブルに座る輝く二人を心からお祝いしました。まさか、同僚が教え子と結婚し、そのお祝いの場に彼の事を知るたくさんの先生達で招かれる事になるなんて、とても不思議な気持ちでした。少し、やんちゃで気分屋さんだった彼が大人になり、一つの幸せな家庭を作る事を誓う姿を見て、嬉しくてたまりませんでした。
二人は、ご家族ご親戚の方やたくさんの友達の祝福のシャワーを一日中浴びていました。その友達の中に、当時彼と同じクラスだった卒園児が3人もいたのです。年長組の時の仲間です。その年長組の時の担任は平田美穂先生でした。美穂先生は、前もってスピーチを頼まれていました。その挨拶は、色々な当時のエピソードやお祝いの言葉でした。しかし、その中でも感動したのは、実は美穂先生は年長組を担任したらその年の子が卒園する時に「みんながいなくなると寂しくなるから、美穂先生に絵を描いてプレゼントして欲しいな。」と言って絵を描いてもらっていたそうです。その時の懐かしい絵を持って来ていました。21年も前の絵です。美穂先生はその間大切に残していたのです。その場に集まっていた新郎を含めて4人の絵を挨拶の中で披露しました。絵の裏には、美穂先生に宛てたメッセージが、たどたどしいクレパスの文字でつづられていました。それはそれは、美穂先生を慕う中、卒園というお別れを淋しく思う切ない気持ちが表れた文字に思えました。そんな物が準備されているとは、思いもしなかった新郎と卒園児達は、驚いていたようでした。それは、卒園児だけではなく、会場におられたたくさんの方々皆からの、「すごーい!!」と言うどよめきの声が聞こえました。
一人の人生の節目に、その子を祝う人達の中に、幼稚園時代ゆかりの人がたくさん集まっている事に、人と人との繋がりのスタートに関わる幼稚園の意味深さを感じます。美穂先生は教え子たちの成長ぶりに…また、卒園してからもずっと先生に思われていた卒園児達もお互いにどんなに嬉しかったでしょうか。その絵を描いた時の事を覚えている子もいました。それぞれに違った人生を歩んでいても、何かの時には、こうして集える仲間の関係が続いているという事は素敵な事だと思います。思い出話もたくさんできたようでした。
幼稚園の子供達には、まだはっきりとした将来が見えません。中学生や高校生くらいになると、将来の事を現実的に考えながら生活していくようになるので、その子がどんな大人になっていくかが、だいたい予想できますが、幼稚園時代から大人までの長い年月は、子供達を色んな風に変えていきます。幼稚園の先生達は、いつも、まだ先の見えない子供達の成長を長い間気にしながら過ごしています。風のたよりや懐かしく久々に会った保護者の話から、今その子がどうしているかを知ったり、手紙や年賀状のやり取りで知ったりして、安心したり心配したりしています。こうして気にしているところに、“嬉しい報告”があれば、我が子の事のように喜びます。新聞等で、卒園児の名前をみつけては、先生達で「○○君が、作文書いてたね」「○○ちゃんが入賞していたね」等と懐かしみながら話をします。先日も開幕した全国高校野球広島大会の各学校のメンバー表が新聞に出ていました。その中から卒園児の名前を一生懸命探します。どの子がどの学校で頑張っているのかをみつけたいからです。どんな人生を歩んでいて、その先どんな志をもって生きていこうとしているのかを応援したいからです。4人の絵を大切にしまっていた平田美穂先生の気持ちはそういう愛情だったと思います。その絵を久しぶりに取り出してみた美穂先生は、きっと当時の事を鮮明に思い出し、その4人だけではなくその他の子供達とも一緒に過ごした1年間を紐解いたでしょう。また、その絵を見せてもらった卒園児達も、当時の自分にふと戻れたでしょう。そして、この繋がりに感謝したのではないかと思います。
自分の事を気にしてくれている人がいるという事を知ったら、何となく心強かったり安心したりします。久々の再会で今までずっと自分の事を気にかけてくれていた事を知った彼らは、きっとこれから先も元気に前を向いて頑張れる力をもらったと思います。(こんな先生を裏切れないな)と思ったでしょう。幼稚園で得た物や学んだ事を生きる力にして自分で幸せだと思える人生を歩んで欲しい…これが、私達の幼稚園から子供達を送り出す時の願いです。幸せをつかんだ卒園児の姿を見ることができた時には、本当に安心し感動します。
まだまだ人生の通過点ではあるけれど、彼らはその絵を見せてもらった事によって、心の栄養補給ができ、これから先、また再び素晴らしい人生を歩める力を得たのではないかと思います。梅雨明けのウエディング…新郎が描いたその絵は丁度雨上がりの虹を見る自分と美穂先生でした。(お相手は変わっちゃいましたね。)
2011年7月15日 10:02 AM |
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投稿者名:ad-mcolumn
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