こいのぼり(平成20年度5月)

何もかもが新しく芽吹く春、新年度が始まりました。子供達も先生達も新しい環境の中で必死に過ごしていたせいか、4月はあっという間に過ぎてしまいました。そして、いつの間にか新緑に包まれる5月です。あちらこちらの自然の中から生命の勢いを感じる事のできる季節です。今年度も昨年度に引き続いて『葉子せんせいの部屋』を書かせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。


さて、幼稚園の送迎バスに乗っていると、鯉のぼりが元気よく泳いでいるのを見かけます。そうは言ってもひと昔前の事を思うと、この光景もめっきり少なくなったようです。私は、鯉のぼりが青い初夏の空で風を受けて雄々と泳ぐ姿を見て、それを毎日揚げておられるご家族の心情を思います。我が家は娘ばかりなので、鯉のぼりは揚げませんが、3月には雛人形を飾ります。長女が生まれた時に実家から祝いに贈ってもらった物です。しかし、飾るのは結構大変で、子供達と一緒に飾るのですが、飾り終えた時には正直、“やれやれ”と思ってしまいます。飾り終えて一か月、初めの内は意識していても、いつの間にか、飾ってある事すら忘れてしまうほど無関心になってしまっています。


雛人形を飾ってしばらく経ったある日、義父がその部屋に入り、
「あぁ、お雛さんが飾ってあるねぇ。」と言って、その前におもむろにひざまずいて目を閉じ、手を合わせて祈り始めました。わりと長い時間だったので、子供達はびっくりしていました。祈り終えて目を開けた祖父に娘が、「おじいちゃん、何てお祈りしてたん?」と聞くと、「里奈子ちゃんと夕奈ちゃんが、元気で笑って大きくなりますように…と祈ったんよ。おじいさんは、それだけ…。それが一番…。」と二人の頭をなでながら目を細めて答えてくれていました。子供達は、とても幸せで満たされた顔をしていました。その時に、“やれやれ”と思いながら飾っていた自分が少し恥ずかしくなりました。子供の成長を祈る親の気持ちには、嘘も飾りもないはずですが、その気持ちを鯉のぼりや雛人形に込めた昔の人達の、それだけをひたすら願って飾る本来の意味をつい忘れてしまっている事に気づかされたのです。


鯉のぼりだって、揚げたり降ろしたりは大変です。家の外にある物ですから、天気を考えて上げ下げしなくてはならないので、油断できません。それでも、毎日揚げてもらっている鯉のぼりは、ご家族の子供を思う強い気持ちを受けて泳いでいるのです。幼稚園でも、3月には雛人形、5月には鯉のぼりをどの学年も、その由来を話したり歌を歌ったりしながら制作します。2階のテラスには年長組の子供達が作ったジャンボ鯉のぼりが飾られています。鯉のぼりを見て…雛人形を飾って、皆が心から祈る“子供の幸せ”を子供達自身が感じとってくれたらと思います。


親は、毎日の育児や仕事に追われて、一日一日が一生懸命!将来の子供の人生設計等に苦悩しながら…の中で、子供の将来を祈ります。その点、おじいちゃんやおばあちゃんの愛情には余裕があって、親とはまた違った、素朴でストレートなもののような気がします。そんな、おじいちゃんおばあちゃんの孫に向ける愛情のかたちに、私は教えられる事がたくさんあります。昔の人は、ただただ、“この子が健康に育ちますように…”と祈るためだけだったのです。“我が家には男の子がいます。天の神様、どうぞ、この子をお守りください。”と空高く揚げていたのです。


雛人形は流し雛から始まりました。草や藁で作った人形に子供の病気や厄を移し、その人形を流す事で、“神様、どうぞこの子からけがれを除き、健康にしてやってください。”…そういうひたむきな願いこそが、古来、言い継がれてきた日本の伝統文化の本来の意味である事を忘れないでいたいものです。子供達にとっても、自分の存在の尊さを静かに祈りながら見つめてくれている人がいる事を感じて、あらためて幸せに浸る事もできるでしょう。折に触れ、こういう事がなくてはならないと思うのです。鯉のぼりを揚げれば…雛人形を飾ればそれでいいかと言えば、そうではないのです。そうしてもらえる事で、子供達自身があらためて幸せを感じたり、自分の命を大切に考えたりするきっかけにもなるような気がします。その家々に合ったかたちで、それぞれのやり方でいいと思います。大きい小さい、立派質素は関係ありません。もっと言えば、なくてもかまわないのです。“鯉のぼり”の季節を歌や語ってやる事で感じ合ってもいいでしょう。空より広く海より深い愛情は、形にならないものでもあるのですから。


親の私達が、そのまた親から注がれてきた愛情をそのまま私達の子供に注いであげましょう。この5月の空からは、たくさんの鯉のぼりが見えるでしょう。そのたくさんの願いを空の神様が見落とされるはずがありません。どの子もどの子も幸せな成長を見守ってくださるでしょう。そして、愛情いっぱいかけてもらって育っていくこの子供達が、次の平和な世の中をつくってくれる事を祈らずにはいられません。 「やねよ~りたかいこいの~ぼ~り~♪」今日も幼稚園では、かわいい声が響き渡っています。

魔法の言葉(平成19年度3月)平成20年3月

1年って本当にアッという間のような気がします。年をとったせいでしょうか?毎日の忙しさのせいでしょうか。だけど、不思議な事に子供達の進級や卒園を目の前にするこの3月は急に時がゆっくり流れていくように感じます。

特に朝、子供達が登園して体操服に着替え、園庭で先生や友達と走り回って遊ぶ姿や、友達と何やら内緒話をしていたり、少し陽が差して暖かいお昼には給食を食べて小川にかかる橋に座り話し込む…そんな様子を少し遠目から心の中の言葉を想像しながらながめている時間は、とても緩やかな時の流れで心地よく感じるられるのです。この1年間は、子供達と先生達にとってどんな時間だったのでしょうか。手を握り、言葉を交わしながら心を結んできました。この繋がりは、担任のない私にとっては妬けるほど深いものです。どうか、この繋がりをいつまでも大切にしてほしいと思います。先生からかけてもらった言葉や手の温もりを忘れないでいてほしいと思います。


子供達は、大好きな人の言葉はスーッと心に入ってくるようです。
1月に来年度入園児の用品・制服注文の日を設け、たくさんの親子が幼稚園にやって来てくれました。まだまだ、集団生活を知らない幼すぎる子供達です。サイズを合わせようとママが一生懸命に制服のブレザーを持ってお子さんに近づくと、「いやだー!」と逃げ回ります。いやなものはいや!なのです。今まではみんな、いやだったらそれで済まされる生活を送っていたのですから…それは、極々当たり前の事。おまけに、おもちゃの入っているクローゼットを「開けて!開けて!僕は遊びたいんだよ!!」と、そのドアを叩きながら泣いてママを困らせていました。

一向にサイズ合わせははかどりません。そこへ、園長先生が近づきその子の目線に合わせ、膝まづき、「アラッ!ちょっとちょっと、僕、ここを持ってごらん。開かないねぇ。今日は、おもちゃはお休みかな?カギが開いてないね。あーぁごめんごめん、今度カギを持ってきておくね。ねっ、葉子先生、今度は開けておいてあげてね。」とすかさず私に振ってきました。私も「あーぁ、ごめんなさい。園長先生、今度おもちゃがお休みじゃあない日には、カギを持って来ておきますね。」と演技をします。
その子は、呆気にとられたのが半分、納得したのが半分のような顔で、諦めてママの「制服を着てみようか。」の言葉にやっと耳を傾けてくれました。


これもよく目にする光景ですが、スーパーのお菓子のコーナーで、「これ買って!これ買って!」とママにせがみ、ママがヒステリックに叱り諦めさせようとしていたり、子供の言葉を聞かぬふりして買い物をし続け、言っている事を聞いてもらえないその子が、歩き続けるママを大泣きしながら後を追っている…。私は、思わず抱っこしてやりたくなります。少しゆっくり話してあげれば落ち着くだろうに…おんぶしてやれば、素直にこちらの言う事に耳を傾けてくれるだろうに…と思うのです。

少し前に同じようにママにキャラクターの箱に入ったクッキーをせがむ男の子がいました。そのママは、その箱を手に取りじっくり見ています。男の子はもう買ってもらえる気になっているようでした。その後、ママはしゃがんで男の子に話し始めました。「かっこいいねーこれ。でも、ここに書いてあるよ“お菓子は少ししか入っていません。たくさん食べたい人はやめた方がいいです。”って。」その次に「ママが、このクッキーならもっとおいしいのをいーっぱい作ってあげるよ。そうしようよ。いっぱい食べたいもんねー。」と続けました。男の子は、ママの言葉に乗せられて「そうしよう!そうしよう!いっぱい!いっぱい!」と飛び跳ねながらママと一緒に行ってしまいました。


それはそれは、アッパレ!!でした。ただただ、ダメダメと否定するのではなくて、少し子供の気持ちを汲み取りながらゆっくりと話してやるのです。制服のサイズ合わせの時の園長先生の言葉も、スーパーでのママの言葉も、正に“魔法の言葉”です。“ウソも方便”だって“魔法の言葉”になるのです。子供達は自分でも、きっとこれ以上わがまま言うとママに叱られちゃうな…っていう事はわかっているのです。でも、ママにはねのけられるともう後に引けなくなるのでしょう。最後には、ママとの意地の張り合いです。傷つけ合いに発展しかねません。子供の気持ちに寄り添う気持ちで、話を聞いてやって欲しいと思います。

でも、いけない事はいけないとはっきり伝えてやってください。自分に寄り添ってくれているのを感じていれば、それもスーッと心に響くと思います。そんなの理想よ。なんて思わないで、もしこんな場面がやって来たら、子供の話を聞いてやりながら、汲み取ってやれる事には共感した上でさとしてみてください。魔法をかけるつもりで…。ママの言葉は愛情いっぱいで子供達にとって一番耳に入るはずですから。


頭ごなしのダメ!や注意には、子供達は自分から耳をふさぎ、シャットアウトしてしまいますよ。幼稚園の先生は“魔法の言葉”をかけるのがとても上手です。魔術話術でこの一年間何度魔法をかけた事か…。アッ!!毒リンゴは食べさせてないですよ。ご安心を。

古きを訪ね新しきを知る(平成19年度2月)平成20年2月

先日、10年近く使った我が家の電子オーブンレンジが故障しました。電子オーブンレンジの基本中の基本のような、ただ食品の温めと解凍とトースト機能のついた単純なものでした。結構便利に使っていたので、壊れて動かなくなったときには大変困りました。もちろん、そればかりに頼って料理をしているわけではないのですが、仕事を持ちながら食事の用意をするにはなかなか便利なものです。しばらくの間は、電子レンジが無くったって料理はできる!と頑張っていましたが、急に解凍しなくてはいけない時、早くご飯支度をしなくてはならない時にはないと不便なものです。


これは、やはり購入しないと……と思い電気店に行きました。安いものはありましたが、どうせ買うなら……と少し欲張って、グリル機能の付いたレンジを購入しました。店員さんの説明をしっかり聞いて決めたのですが、朝食のメニューが一度にできてしまうというのです。卵・ソーセージ・野菜を鉄板に並べて時間設定すれば、ゆで卵・ボイルソーセージ・温野菜ができあがります。肉じゃがだって、耐熱容器の中に適当に切ったジャガイモやたまねぎやニンジン牛肉を並べ、調味料をかけてスタートボタンを押せばそのまま出来上がります。一瞬、(なんて便利!)と感心しました。いくつも鍋を出さなくてもいいのです。それぞれの時間や出来具合をつきっきりで見ていなくていいのです。その間、違うメニューに取り掛かる事もできるし、その場を離れる事もできるというのです。これぞ!主婦の味方!と思わされました。


家に帰り、こて調べにゆで卵を作りました。なかなかいいゆで卵になったのですが、それを子供達が見ていて、「ゆで卵は、鍋で茹でるんでしょ。お水の中じゃあないのにどうして茹でる事ができるの?」と、ふに落ちない顔をしていました。「じゃあ、何でもこのレンジの中に入れたら料理できるの?」と聞きました。

私は、ハッとしました。この子達は、私がこの便利な電子レンジで毎回食事の用意をするようになれば、鍋の使い方も野菜の本当の茹で方も、黄身が真ん中になるゆで卵の作り方も知らずにお母さんになるかもしれない。そして、自分の子供に「ゆで卵は電子レンジで作るのよ。」と教えるだろう。

たしかに、いずれそういう時代になるのかもしれない。かつて私達が、家庭科の授業で苦労しながら練習した足踏みミシンや、レバーを回しながら脱水する一層式洗濯機が、今や姿を消してしまい、新しい物に変わったように…。こうした時代の流れに人は皆、乗り遅れる事なくちゃんとついていっています。逆戻りする事はほとんどない。でも、やはり、掃除をする時は雑巾を手で絞るし、落ちにくい汚れの洗濯物は手でもみ洗いやたたき洗いをするのです。

時代は変わっていっても、原点なるものは忘れられてはいないのです。炊飯器だって、かまどで火をおこして「はじめチョロチョロなかパッパ」とごはんを炊く古き時代が原点になっている事を私達大人は知っています。子供達に、この原点や基本も教えないで、便利な物を即与えていいのだろうか、それが、当たり前の物だと思わせていいのでしょうか。基本を教えた上で、新しい世の中の流れに乗せてやるべきだと思うのです。包丁の使い方・水や火、調味料の加減の仕方・味付けのコツ等、基本があって進化があるという事を教えてやるべきだと思います。そうでないと、便利な物が無くなったらその他の手段を見つける事のできない大人になってしまうような気がするのです。今の世の中、便利な物が次から次へと出回ります。私達の生活に時間と潤いをもたらすために素晴らしい事です。でも、その原点は大人である私達が子供達に教えてやらなければならないと思います。


こんな事を書いている私も“原点を知らない現代人”の一人かもしれません。しかし、幼い頃、母の手伝いをしながら…あるいは、母のそばで母がしている事を見ながら、原点に触れる事ができていたような気がします。その時はそれでも“便利になった世の中”だったのですが、それから世の中はどんどん進化していっています。ついに、電子レンジという箱の中でごちそうができる世の中になりました。これが当たり前なのではなく、「本当は、こんなふうに肉じゃがを作るんだよ。」「こんなふうに掃除するんだよ。」という事も教えておくべきだと思います。

面倒臭くても、時間がかかっても、基本のやり方のほうがおいしかったりきれいにできたりする場合もたくさんあります。便利な道具を使うとしても、基本や原点をも知り見直す気持ちをどこかに持って子供達に伝えていかなければ、世の中がどこか変になりそうな気がします。


もともと人間は、原始時代、火と道具を使える唯一の動物だったのです。知恵を使い生きてきた動物です。賢い生き物なのですから、便利さだけを求めたり、それにしがみついてばかりではなく、原点を知りその良さにも感心を示す事も忘れないでいたいものです。


私も、子供達に、合理的な生活に流されすぎないように、本当のゆで卵の作り方や肉じゃがの作り方もきちんと伝えてやれる母でありたいと思います。と言いつつ、今日もまた便利な調理器で料理を作り、片付けも便利な食器洗浄機に任せる…。これって…。

食育(平成19年度1月)平成20年1月

新年あけましておめでとうございます。皆さん、それぞれに色々な想いを持って新しい年をお迎えになられた事でしょう。昨年を振り返り、また新しい年に夢と希望をもって決意新たに過ごしていきたいものです。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


さて、我が家は必ず家族みんなが揃って元旦の朝を迎えます。神棚にみんなで手を合わせ家内安全と家族の健康をお願いし、お神酒をいただきながらおせちとお雑煮を食べます。日頃毎日忙しくて、家族全員が集まる事がなかなかないので、子供達はこの日をとても楽しみにしています。本当にのんびりとくつろげるのは、一年を通してもこの日ぐらいかもしれません。おせち料理を食べながら、それぞれの料理の意味を子供達に教えてやります。黒豆は“まめ(元気)に暮らせますように…”数の子は“子孫繁栄を願って…”煮しめの中の蓮根は、穴があいている事から“先の見通しのよい一年が過ごせますように…”等々おじいちゃんの知識に助けられながらではありますが、子供達は熱心に聞いてくれます。毎年同じ話をしているのに、子供達も成長と共に感じ方が変わってくるのでしょう。料理にそんな願いや意味があるという事にも驚きでしょうし、今も昔も変わらず込められている、料理を作る人の家族の幸せを願う気持ちの大切さやありがたみも子供なりに感じているようです。毎年おせち料理は、二人の娘達にも手伝ってもらい、三人でバタバタしながら作ります。子供達も大きくなってきたので、結構助かるようになりました。


先月の初めに年長組の子供達は、三次市が企画している食育推進プロジェクトの一つである食育講座の料理作りを体験しました。味噌汁を作ったのですが、作る前に味噌汁の具になる食材について、どんな栄養があるのか、その栄養は身体にどんな意味を持つのかを話していただきました。毎日何気なく食べていた物が自分の身体でどんな仕事をしてくれているのかを教わりました。サツマイモには身体を温めてくれる力がある事、だしをとるいりこを食べると、骨をつくってくれたり、強くしてくれたりするという事。同時に、私達は食物や動物や魚の命をいただいて命をつないでいる、だから私たちは、粗末な食べ方をしないで、ありがたい気持をもってきれいに食べてあげなくてはいけないのだという意識も持たせていただきました。食べ物に関心を持つ事が、子供の食べる意識や意欲を育てるのです。子供達は一人ひとり包丁を持たせてもらい、サツマイモ、ニンジン、ネギを切りました。シメジを丁寧に手で割きました。お団子を丸めて静かにお汁の中に入れました。おいしく出来上がるまでの時間が待ち遠しかったり、手間と時間をかける過程で、食べる人へのどんな想いが込められているかを実感したと思います。包丁の使い方から、いつもお母さんと一緒にお料理を作っているのかな?と伺える子もたくさんいました。ご馳走をつくってくれるママの隣でじっとママの手先を見つめたり、料理が出来上がるいい香りの中で、幼稚園であった出来事を話したりしているのかな?等と、その様子を勝手に想像して微笑ましく思えました。


料理上手の理事長先生が、遅くまで残って仕事をしている先生達によくご馳走を作ってくださいます。“ご苦労様”の気持ちと“頑張っている先生達に食べさせてやりたい”という優しい気持ちが伝わってきます。その時いつもおっしゃる事は、「愛情がこもっていれば何でもおいしくなるんだ。」──本当にそうだろうと思います。皆さんもお料理しながら(子供達がどんな顔をして食べてくれるかな?)とか(これを食べて元気にしてやりたい。)(パパは「おいしいよ。」って言ってくれるかしら?)等と想いをはせておられる事でしょう。また、食べながら(一生懸命、私のために作ってくれたんだろうなぁ。)とそれを感じてくれたら…作る方も食べる方も心通わせてさらにおいしくいただけるにちがいありません。


今『食育』は、よく耳にする言葉ですが、色々な意味があると思います。生きとし生けるものは皆何かを食して生きています。食べるという事は当たり前過ぎて振り向く事を忘れられがちでしたが、実はこうして考えると『食する事』を通して、単に身体がつくられるというだけでなく心と心の結びつきや命の営みへの関心までも育てられる大切な教育なのです。料理を囲む事によって、家族の時間を生んだり、あるいは取り戻したりできるような気もします。そして、親子で台所に立ち、知らず知らずのうちに料理を覚え、母の味父の味を伝えるのもすばらしい『食育』の一つだと思います。


今年のお正月は、おせち料理を囲んでどのような話題に花が咲きましたか?『食』を通して家族で話をし、『食』に興味を持たせてやってください。今や子供達の中には、朝ごはんを食べずに学校へ行く子もいて、勉強にも集中できず、お昼まで気力も体力ももたないそうです。食育を受けるのは子供達だけでなく、大人達ももっと『食』に関心をもたなくてはいけないのかもしれません。食べる事が大好きなこの幼児期にこそ、親子で食育を意識し、食べる事をもっともっと好きにさせ、『食』によって心と身体は成長していっているのだという事を感じさせてやりましょう。

思い出の一曲(平成19年度12月)

ついこの前まで「今年はいつまでも暑いね。ちょっと異常だね。」と言って冬の到来の遅さを不思議がっていたのに、その寒さをいよいよ感じ始めたら「さむーい!この寒さは辛いね。いやだねぇ。」と勝手なことをつい口走ってしまいます。当たり前の事が当たり前にやって来る事を有難いと思わなくてはいけませんね。幼稚園の庭の木々も深まる秋の冷たい風に色付いた葉が落ちていきます。街路樹も枝を切られて冬支度。そろそろあちらこちらでクリスマスソングが聴かれます。一年の終わりが近くなるのを感じます。


幼稚園では、今“音楽発表会”に向けて合奏・踊り・歌の練習を頑張っています。お家でもお子さん達が、練習の様子を話して聞かせてくれているのではないでしょうか。私も毎日その様子を見ています。この発表会への取り組みは夏から始まっています。先生が選曲をし、子供達の耳から身体にリズムやメロディーを自然に感じとらさせるために色々な工夫をしながら楽しませて来ました。そして、歌ったり踊ったりしながら曲を覚え、11月になってやっと楽器を手に合奏します。12月9日の本番までこの経験を繰り返しながら、その中で音楽の力を育てるだけでなく、頑張り抜く力や友達や先生との関係を深めていきます。


10年以上も前に卒園した子が、以前「彼女ができたから紹介するよ。」と久しぶりに幼稚園を訪ねて来てくれた事があります。懐かしい幼稚園の中を歩きながらたくさんの思い出話をしました。今は教材室になっている部屋を覗いて、「あっ!この部屋で合奏をした!僕木琴をしたよね。」「確か、戦いの曲!すごく楽しかった。」その話を聞いて、発表会の練習の事を言っているのだという事がすぐにわかりました。それは、戦いの曲…ではなくて、『剣の舞』という曲の事を言っているのでした。曲のイメージをつかんで欲しかったので、曲の中で物語を作って「ここは、戦っているところだよ。」とか、「静かに踊っているところね。」等と話をしながら取り組んだのでした。

中学生になる男の子が習っている音楽教室の発表会で「思い出の曲を弾きます。」と言って、幼稚園の発表会で合奏した曲を電子オルガンで弾いてくれました。

また、人生の道に迷っている、まともにいっていれば今高校2年生の卒園児である少年が、よく幼稚園を訪ねて来ます。自分の夢を見つけられずこれからどうしていけばいいのか悩んでいます。その子は、事ある毎に幼稚園の事を思い出し懐かしむのです。…というより、その思い出にすがりついているのです。その子の大きな思い出になっているのが、“音楽発表会”で演奏した『シング・シング・シング』というジャズです。小さな体で大太鼓をしました。早いリズムに合わせて連打する部分では、手に豆が出来るほどバチをしっかり握りたたきました。彼なりに努力をして必死だった姿を覚えています。出来栄えは最高でした。本当にかっこよかったです。少年は、今でも時々あの時の発表会のビデオを一人で観るそうです。(あの頃の俺は凄かった!あの頃は楽しかった!)…と、かつての自分の姿や友達を見たり、若かりし頃の私の姿を苦笑したりしているのです。振り返る事で前に進めないでいるのかも知れませんが、少なくとも壊れそうになっている彼を支えられているという事には間違いありません。


彼女を連れて来てくれた彼も、音楽教室で自分が選曲して演奏した子も、道に迷っている少年も三人共あの頃演奏した曲をずっと心の片隅にしまっていてくれました。音楽的な才能を育ててやれたかという事ではなく、彼らの人生においてこれまでささやかでも心の支えになっていた事…そしてきっとこれからも…。その事が意味ある事だと思うのです。

教育のねらいは目先の結果ではなく、その子の長い人生においてどのような意味を持たせてやれたかという事だと思います。特に幼稚園では『生きる力』の『根』の部分を育てたいのです。私たち大人でも、心に残る思い出の一曲があるでしょう。その曲を聴いたら、胸がキュンと痛くなったりその頃の事が走馬灯のように思い出されたりする事がありませんか?一瞬自分をその頃に巻き戻させて青春時代を懐かしみ、そうする事で勇気や元気をもらったりする事が…。


今、幼稚園の子供達は、これから先きっと『思い出の一曲』になるであろう演奏にとりくんでいます。それが何になるのかどんな意味を持つのかなんて考えもしないで練習しています。ただただ楽しいのです。中には、なかなか上手にできなくて落ち込んだり悲しんだりする事もあるでしょう。しかし、先生達は子供達に無理難題を提示しているのではありません。きっとできる事だから…ぜひそこをクリアーして欲しいと思っているから頑張らせるのです。その子にとってその達成感こそがこれから長い人生の中で必ずどこかで自分を支えてくれる『思い出の一曲』になるはずだからです。友達や先生と心を合わせて頑張った思い出が、子供達の生きる力になると思うからなのです。


音楽発表会まであとわずか。子供達がずっと先に思い出してくれるような、そんな経験となりますように、どうか遠い先にまで続く先生と友達との思い出作りを温かく応援していてください。