家族の絆(平成13年度8月)

先日、私たち夫婦が仲人をした卒園児の若夫婦が、実家の親に催促され、生後100日の男の子の宮参りを済ませたあと、赤ちゃんを連れて立ち寄ってくれました。

その夫婦は核家族で、子育ての大変さをいろいろと話していました。そこで気になったのが、夜泣きをするかどうかを訊いたとき、母親が、「目覚まし時計をかけて、夜中に3回起きているので、毎日睡眠不足です」といいます。理由を訊くと、お産したときに、「ミルクは3時間おきに30㏄やりなさい」と看護婦さんにいわれたので、それをかたくなに守って、ぐっすり寝ている赤ちゃんを起こしてミルクを与えているというのです。そこで、「それは、あくまでも生まれて間もない赤ちゃんの飲む量の目安であって、ましてや、ぐっすり寝ているのに、わざわざ起こしてまでやる必要はない。赤ちゃんはお腹がすいたら、必ず泣くから、その時に与えればいいということを話してやりました。

赤ちゃんが泣く理由に、1.お腹がすいたとき(空腹感) 2.不快なとき(おむつの汚れや厚着等の不快感、痛いときや高熱等身体の不調感) 3.恐怖や不安(大きな音、眠くなったときの不安感、極端な環境の変化に対する恐怖感)と、大きく分けて3つぐらいしか有りません。

赤ちゃんが泣いたとき、母親(父親)は、「もうそろそろお腹がすいたころかな」、「おむつが汚れているころかな」、それらに該当しないと、「どこか具合が悪く熱でもあるのかな」と、その時その時の状況判断をしながら対応してやります。赤ちゃんが泣くと、母親はおむつを触って汚れを確かめたり、空腹かどうかを判断します。「前回お乳を飲んで、もう、3時間余りも過ぎたから、お腹がすいたのかな」と、赤ちゃんを抱いてお乳(ミルク)をやります。前回からの経過時間が3時間ぐらい、どのくらい飲んだかを判断するときの目安が30㏄といわれたのであって、飲む量は、その子その子でみんなちがいます。

お腹がすいて泣いているのに、余りにも飲む量が少ないと、鼻が詰まっているのではとか、口内炎になっていないかとか、何か体調に異常が有るかを判断すればいいのです。ぱっと吐き出してしまうのは幽門狭窄(ゆうもんきょうさく)かもしれないとお医者さんに相談するのです。

それを、赤ちゃんがまだ空腹感を感じていないのに、3時間おきに、先に先にミルクをやることは、食欲がないのに、「食べろ、食べろ」と無理やりに食べさせられているのと同じで、消化にも良くありません。「お腹がすいて泣く」ことは、赤ちゃんにとっては大切な仕事なのです。まだ、何もしゃべれない赤ちゃんが、「お腹がすいた」と泣くことで、母親に訴えているのです。それに母親が応えてやって、「ごめんね、もうすぐミルクをあげるからね」といいながらミルクを準備し抱っこをして、赤ちゃんにミルクを飲ませる時、「そう、お腹がすいていたの、いっぱい飲んでね」とか、何かを語りかけながらお乳をあげます。赤ちゃんは、その語りかけを聴きながら、お母さんの目や口元をしっかりと見つめて心地よい気分で飲んでいます。空腹感を持って泣くことで、母親が反応してお乳をくれることは、「欲求を伝え、応えてくれる」とういう効力感と安心感を持つことになります。

その経験のくり返しが、意欲と言葉の獲得とに大きな影響を持ってくるのです。その若い夫婦が、もう一つこんなことをいいました。「英語のカセットを買って、赤ちゃんに聴かせようと思う」というのです。「なんで?」と訊くと、3歳児検診のとき、同じ病院でお産したお母さんが、「LとRの発音は赤ちゃんの頃から英語に触れていないと大きくなってからでは遅いと、セールスの人にいわれたので、買って聴かせている」と言っていたので、自分もそうしようと思うというのです。「そんなことをしていたら、日本語も話せない子になるよ」と、やめるように伝えました。

母国語がしっかりできるようになり、母国語で思考できる能力が育たないと意味がないのです。このように、母親の極端な子育ては、核家族等で育児についての文化の伝承がなく、情報過多も相まって、余裕のある子育てができなくなっている様です。


近年の、いじめや17歳を中心とした様々な事件、ナイフの殺傷事件や、子供に対する親の虐待など、いろいろと信じられないような事件を聞く度に、家族の絆を失ったことからくる極端な子育ても、原因しているのではないかと思うのです。


そんな中、保護者の方と担任との「れんらく帳」の中に、こんなことが書いてありました。『Mちゃんのおもしろい話』と題して、《ある晩、パパに(M)「この本読んでぇ」 (父)「今 食べたばっかりじゃけ ちょっとまって」 (母)「Mちゃん今日パパお疲れじゃけそっとしておいてあげて」。すると Mちゃんは そろ~り そろ~りぬき足さし足でパパに近づき小声で「これ読んでください」〈その そっとじゃないだろ!! オイッ〉 こ~ゆうことされたらパパも読まずにはいられなかったらしい。》と、お母さんからのお手紙です。ほほえましい家族の姿がありありと浮かんできます。それまでにも絵本を毎日読んでやっている様子もうかがえます。お母さんの子育ての余裕も伺えます。こうした家族の絆を大切にしている楽しい家庭が大切なのです。家族みんなで絆のある生活をする楽しさを味わってください。焦らないで余裕を持った子育てを楽しんでください。

さようなら園舎(平成13年度7月)

6月14日にマガモ15羽が生まれ、結局は11羽が残って順調に成長しています。子供たちは登園するなり、カモのいる池をのぞき込んでは声をかけています。幼稚園に来られた保護者の方やお客さんからも「かわいい!」と歓声があがります。カモの親子を小川に離すとひなが列を作って泳いでいます。子供たちは赤ちゃん誕生の感動をしっかりと感じ取ってくれたものと思います。抱卵の期間は22日か23日間でした。中国新聞とTSSテレビの取材もありました(中国新聞にはアイガモと紹介しましたがマガモの誤りでした)。やはり「生命の誕生」は見る人の心を慰めてくれます。


話は変わって、先日の参観日での年長組の活動は、「思い出の園舎にお別れのらくがきをしよう」というものでした。その計画を年長組の担任から相談を受けたとき、すでに解体工事契約が済み、参観日の前日には園舎の解体の予定でした。そこで急きょ、解体の日を延期してもらい、参観日の翌日からにしてもらうことにしました。


この園舎は、女学校の校舎を解体して、昭和45年度に建築、昭和46年4月に開園した三次中央幼稚園の歴史の始まった場所なのです。私が24歳で東京から三次に帰ってくるときには、すでに、幼稚園をしたいという思いに駆られていました。その3年後の27歳の時に幼稚園を開園したのです。その1年後には、大水害(昭和47年豪雨)に遭い、天井近くまで浸水し大変な目に遭いましたが、子供たちとの楽しい思い出や頑張った思い出のいっぱいある園舎なのです。


参観日には、落書きの企画を聞きつけてやって来てくれた中学生や小学生もいました。中には、参観日前日の土曜日に描きに来た中学生や、後から知って駆けつけてきた卒園児の親子もありました。あちらこちらに、「楽しい思い出をありがとう」「大切な思い出をありがとう」「三次中央幼稚園で大きくなりました。ありがとう」「頑張っているよ。いっぱい遊んだホールよ、バイバイ」等々、いっぱい描いてくれていました。予想すらしていなかったので、卒園児まで駆けつけて描いてくれたことは感動でした。


当日は、「落書きと聞いただけでワクワクしてスプレー缶を何本も買い込んでしまいました」、「今日は、ステージの壁のど真ん中に、思いっきり描くことができて大満足でした」、「うちの子(男の子)が絵を描いているところなんか見たことなかったけーおもしろいよ。けっこう上手く描くのぅ。感心したよ」と、お父さんたちも興奮気味。お母さんたちも負けじと、「私なんて、9年間もこの幼稚園に来ているでしょう(三姉妹の三番目が只今年長組)。だから子供以上に思い出があって、すごくすごく淋しいよ」そういって、先生一人ひとりにメッセージを残してくれています。「家でこれやられたら私鬼になっちゃう!でも今、私も思いっきり楽しんでいます。ストレス解消になってるよ」と、楽しそうです。
そして、参観終了後、何人もの保護者の方がホールに来られ、みなさん「淋しいね…」と、慈しみながら見てまわられていました。卒園児である保護者の方が、「私もこの幼稚園で育ちました。今、息子が通っています」と、自分がうめ組だったときの部屋で親子で描いている姿や、当時の担任だった先生と、子供の時の思い出を語りながら見てまわり、最後にしっかりメッセージを描いて帰られた姿は印象的でした。


私たちはもちろんのこと、もしかすると私たち以上に、保護者の方、そして卒園児を含む子供たちは、この移り変わる様をいろいろな想い、複雑な想いで見守っておられるのかもしれません。
落書き大会は、ただ大胆に描く事を楽しむのみならず、心を表すメッセージ大会でもあったような気がしました。


参観日の前日、前々日と、子供たちがホールのそうじをしてくれました。ピアノも音響設備もロッカーもすべてなくなっていることにとても驚き、「淋しいねー」「広くなったみたい」と子供たちなりに何か感じている様子でした。そうじにもいつも以上に力が入っていました。普段なら嫌がるであろう、ほこりだらけの所も、進んでそうじをしてくれている姿には私もびっくりしました。「もうみんなで集まれんのんかね~」、「あ~、ここ、うめ組の時の部屋、懐かしい」、「この部屋におるとき、いつも涙が出よったんよ」、「僕もうめ組の時は指チュパチュパしよったよ」等と、1、2年前のことなのに、本当に懐かしそうに語りあっている子供たちをとてもかわいく感じました。懐かしいと思う気持ちを味わいながら子供たちなりに自らの成長も感じていたようでした。その園舎を解体される様子を目の当たりにした子供たちには、強烈な印象として-心の中の思い出として-いつまでも残っていくことでしょう。


そして、新しく立ち上がっていく園舎を見ながら過ごしていくことになります。2月上旬の完成予定で、こけら落としとなるよう、幼稚園の発表会を3階にできる大ホールで行いたいと思っています。
このことも、大きな思い出となってくれることを願っています。

おがわ(平成13年度6月)

今年も幼稚園の車庫にツバメが巣を作りました。それも、新しく作るのではなく、昨年作った巣を補修して使っています。ツバメの世界も再利用する知恵があるのです。その巣に、ひな5羽が生まれ、カラスに襲われることもなく、無事に巣立っていきました。園庭の池にいるマガモの巣箱にと、発泡スチロールの空き箱を置いてやっていました。卵もたくさん生んで、抱卵を始めていましたが、何故か、発砲スチロールをつつくことに興味を持ったオスのカモに、くちばしで何回もちぎられて、とうとう壊されて、水の中に卵が全部落ちてしまい、1回目の抱卵は失敗してしまいました。かわいそうなことをしてしまったと、今度は、板でしっかりとした巣箱を作ってやりました。間なしに、2度目の産卵を始め、10個余りの卵を生んで、5月20日から、再度、抱卵を始めています。6月3日頃にはひなが誕生する予定です。クジャクも大きな卵を生み始めています。


ずいぶんと温かくなり、早くしてやらなければと気がかりだったヒツジの毛狩りも済ませ、毛を刈られたヒツジは、すっかりスマートになっています。5月半ば頃から真夏日のような暑さが続いているため、子供たちは小川に入ったりしながら水遊びに興じています。その小川を毎週日曜日に洗っていますが、月曜日には土がいっぱい入って、すぐさま水が濁ってしまいます。見ていると、年少、年中の子供たちがスコップを持ってきては周りの土を掘って入れています。土がパラパラと落ちていく様子や水の濁るのがおもしろいらしく、余りにも楽しそうなので、「これもいい経験だ」と想いながら、止めないで見ています。水辺には、ハスや菖蒲など水生植物を植えますが、植えた次の日は、ほとんど抜かれたりちぎられてしまいます。年少の子供たちが葉っぱをちぎっては水に浮かべて遊んでいるのです。それでも、また植えておきます。園庭にある小川は、子供たちに思う存分遊ばせたやりたいものですから、余り禁止はしないようにしています。水の中には、メダカやトンボのヤゴ、小さなコイ等がいます。メダカをすくおうと一生懸命です。年少、年中の子供にはなかなかすくえないのですが、それでも、得意な子がいます。浅瀬にうまく追いやって、スコップで救っている子やアイスクリームの空き容器ですっくたり、手だけだすくえる子もいます。年長組にもなるとずいぶんと簡単に救います。コイも岩場に手を突っ込んで握ります。捕った魚を容器に入れても、また小川の中に返してやっています。年少や年中の子供は、やっと掴まえたものですから、しっかりと握りしめたり、土の上に置くため、メダカや魚が時々犠牲になります。その様子を、年長組の子供たちは、あきらめ顔で見ています。年少、年中の子供たちが土の上にメダカやコイを落としたのを見ると、すぐに助けて水の中に入れてくれます。年長組の子供も、年少、年長の頃には同じ様なことをしていたのですが、魚を助ける余裕もできてきています。
魚が死ぬからと、掴むことを禁止すれば簡単なのですが、それよりも、魚を握ったり掴まえたりする楽しさをしっかりと味合わせてやることの方が大切のように思います。


子供は好奇心の固まりです。カモやアヒルを初めてみたときには、3歳児は小石を投げます。いじめているように見えるかもしれませんが、幼児の最初の関わり方なのです。触りたくても怖くてさわれないし、そうかといって、興味に駆られ、関わりを持ちたい気持ちでいますから、結局は、小石を投げるのです。入園間もない4月には、うさぎ小屋やヤギの小屋、カモのいる池にも、小石がいっぱい投げ込んであります。そうしている内に、えさをもってきたり、抱っこして遊ぶようになってきます。


お父さんお母さんにも子供の頃に経験されたことと思いますが、魚を捕ったり、昆虫を捕まえたりして遊んだときの楽しさは、大人になっても忘れません。好奇心に駆られ、夢中になって遊んだ楽しさが、小動物を飼育したり花を育てたりする心を促します。これらの経験が、子供の心を育み、その楽しい思い出とともに、セミやトンボの羽をもぎ取ったりして小動物の死に直面した経験が、心の痛みとして残り、後になって、「かわいそうなことをした」と思うようになります。これらの経験があるからこそ、生き物の命を大切にするようになり、楽しかった川が汚れたり、水辺や野原がなくなっていくことを悲しく思うようになるのです。


先週は、第4土曜日に小川の掃除をしましたが、中学3年生になった卒園児5人の女の子が、遊びに来てくれました。最初はブランコや滑り台等の遊具で遊んでいましたが、小川のメダカやコイを見つけると、早速、小川に手を入れて、メダカをすくったりコイを握ったりして遊んでいます。「何時間遊んでもあきんね」といいながら、夕方までの3、4時間も遊んで帰りました。それほど楽しいのです。
幼稚園の先生も、小川の下流の方に出てしまったメダカを網ですくって、「きゃあ!メダカをすくったのは始めて!」と、興奮しています

朝食(平成13年度5月)

今年は新入園児に泣く子がほとんどいなく、泣いても、お母さんとの別れ際に泣くぐらいで、それも、2,3日で終わってしまいました。いつもなら、主任や園長が、泣いている子を、おんぶしたり抱っこしたりと、手助けのための出番があるのですが、今年はそれもなく、少々、拍子抜けしています。新年度を迎え、3週間が経ちました。新しく入園してきた子供たちも、幼稚園の様子や時間の流れも理解してきたようで、ずいぶんと落ち着いてきています。


そんな頃の園庭では、年少組の担任が「あぁぶくたった♪ にえたった♪ にえたかどうかたべてみよう♪」と、伝承あそびを教えながら遊んでいます。ほとんどの新入園児は、そのあそびをしたことがありませんから、あそびを伝える方も大変です。その年少組の子供たちの周りに、いつのまにか年中、年長の子供たちが集まってきて、その様子をニコニコしながら見ているのです。それに気付いた先生が、「さくらぐみさんも見ていないで、中に入って一緒にやろうよ」という呼びかけで、周りで見ていた子供たちも一緒に遊び始めました。それも、ただ一緒に遊ぶのではなく、年少組の子供たちに教えながら遊んでくれています。そのあそびの途中、小川でズボンを濡らした子の着替えをしてやるため、先生がその場をしばらく離れました。それでも、そのあそびが中断することもなく、年少児の手を取ったりしながら、年中、年長の子が、先生役のように一生懸命続けています。そのほほえましい様子を見ていて、子供たちの関わりのすばらしさに、あらためて感心したのでした。


しばらくして、帰り支度をしている保育室をまわってみていました。年長組のクラスに入って、先生と子供たちのやりとりを聞いていましたが、担任が、「今日、朝ご飯をちゃんと食べてきた人?」と聞くと、ほとんどの子供たちは「食べた」といっています。「じゃ、おみそ汁だった人?」と聞くと、5人ほどいました。「じゃ、パンだった人?」と聞くと、12人です。「他の人は?」と再度聞くと、なんと、「ジュースだけ」「お菓子を食べた」「なんにも食べていない」という子が4、5人いるのです。朝食での、パンかご飯かの比率はどうであれ、ジュースだけとか、お菓子だけの子や食べていない子がいるのにはショックでした。


それを聞いていて、「今朝は、前の日になにかあって、きっと時間までに起きれなかったのだろう」と思ったのです。しかし、担任に訊いてみると、ほとんど毎日、同じ子がそうだというのです。
近年、大人の生活も夜型になってきたといわれるように、就寝時間がずいぶんと遅くなってきています。それに合わせて、子供も9時、10時まで起きていても平気な子が多いのです。遅くまで起きていると、当然、朝起きるのが遅くなります。すると、通園バスに間に合わなくなるので大慌てです。お母さんの「早くしなさい!」「早く!早く!」「急いで!」といっている光景が目に浮かびます。そういえば、時々バスの運転をするときに、口にご飯をほおばったままバスに乗る子がいると思えば、おにぎりを食べながら、慌ててバスのところまでかけよって来ている子を見かけることがあります。


幼児は10時間の睡眠時間が必要といわれています。8時に寝れば6時の起床です。10時に寝れば8時に起きることになります。ところが、8時に起きたのでは幼稚園に間に合いませんから、もっと前に、無理やりに起こされることになります。無理やり起きていますから、すっきりと目が覚めません。当然、ぐずぐずすることになります。お腹もすいてきません。朝食をとらないと、お昼にはお腹がすごくすくだろうと思いがちですが、全く逆で、食欲も衰えてきます。朝、ちゃんと食事をとると、お昼にはきちんとお腹がすいてくるのです。


子供の生活には、規則正しいリズムを作ってやることが、とても大切なことなのです。生活のリズムがルーズなままに育つと、他のことまでルーズな子となり、小学生、中学生になっても生活のリズムが確保できませんから、意欲や体力、ましてや学力もつかないし、荒れる原因にもなります。昔から、「子供は早寝早起き」といわれてきたのも、今でもとても大切なことなのです。幼稚園でも、ちゃんと朝食をとっていない子は、やはり、元気がありません。


お母さんも、朝早く起きて、毎日、朝食の準備をするのも大変かもしれません。それでも、かわいい我が子のためにも、家族で規則正しい生活のリズムを取りながら、朝食も余裕を持って食べる習慣をつけて欲しいのです。お母さんが、余裕のある笑顔で送り出してやることが、今日一日の幸せの出発点なのです。


5月からは、午後の保育も始まります。お弁当と給食が交互になります。幼稚園でお弁当を食べているときの様子を見ていても、「お母さんが作ってくれた」といいながら食べている顔は、とても幸せそうな顔をしています。お弁当作りは大変だなんて思わないで、お母さんの作ったお弁当を、子供がうれしそうに食べている様子を想像しながら作ってください。お弁当作りもとても楽しくなります。
きっと、そのことも、お母さんの幸せと感じてもらえると思います。

みんな素敵(平成12年度)平成13年1月

つい先日のことです。2学期から、1便増えた別コースの園バスを、私が運転していますが、その日は、出版社に提出する急ぎの原稿があって、子供たちをバスで送った帰りに郵便局に立ち寄ろうと、バスの出発時間ぎりぎりまで、コピーをして封筒に入れ、その原稿を送る準備をしていました。その間、そのバスに乗る6人の園児が、事務室でイスに座って待ってくれていました。年長組の男の子が、「園長先生は仕事が忙しいんだ」といいながら、私のしていることをみんなで眺めていました。「さ、出来た。待たせてごめんね。バスに乗るよ」と言うやいなや、年少の女の子が、私のくつをきれいにそろえて、さっと私の足下に置いてくれたのです。「Yちゃんありがとう。でもすごい!園長先生の靴をそろえてくれたんだもの。ありがとうね」と、私のうれしい気持ちを伝えました。そばにいた美智子先生も、「見~ちゃった。Yちゃんのすごく良いとこ見~ちゃった。」とほめてくれています。バスを運転しながら、「きっと、お家でお母さんがいつもそうされているのだろう」と、心地よい気持ちで、お家での様子を想像していました。


1月の講演会の時に、講師の永見勝徳先生が「心を育む」という演題で、「親が育たなければ子供も育たない」と、くつをそろえる例も出して、「親がしなければ子供はしない。親がするとおりに子供はする」と話されていましたが、まさにそのとおりの良い光景でした。やはり、挨拶もそのとおりです。

「おはようございます」、「こんにちは」、「失礼します」、「さようなら」、あるいは、「ありがとう」、「ごめんなさい」とちゃんと言えるのも、ふだんの生活の中で、周りの大人がいつも言っているから出来るのです。お客さんが来られて、慌てて、「ちゃんと挨拶をしなさい」と言っても、うまくはいきません。片付けや掃除も同じことです。片づけなさいと口うるさく言ってもなかなか言うことをきいてくれません。親の片づけている姿や子供と一緒に片づけることで学ぶのです。


よく見る光景に、ポイ捨てが有ります。皆さんも見られた経験が度々あると思いますが、車の中から、たばこや空き缶を捨てる行為です。車の中に灰皿があるのに、自分の車の灰皿を汚さないために、わざわざ窓を開けて道路に捨てるのです。最近の若者だけかと思っていたら、結構、年輩のおばさんまでが、空き缶を投げ捨てている光景を見たことがあります。もっと信じられないのが、自分の子供が車に同乗しているのに、子供の見ている目の前で、空き缶を捨てる親がいるのです。その子がどんな人間に育っていくかは、容易に想像できます。Yちゃんの心地よい話から、説教ぽい話になってしまいました。とにかく、子供は親(大人)の姿からいろいろなことを学ぶのです。


このころになると、急に温かくなり、木の芽の息吹を感じます。子供たちも、ぽかぽか陽気の中で、園庭で遊んでいる姿も一段と活発になってきています。その子供たちの遊んでいる姿を見ると、それぞれが友だちと深く関わりながら、いろいろなところでいろいろな遊びをしています。その楽しそうな様子を見ていて、とてもほほえましく感じます。本当に仲良しなのです。この子たちもみんな、それぞれの家庭で愛情をいっぱいに受けながら育っているのだなと感じずにはおられません。みんな優しいのです。


ホールでは、卒園式の練習が始まりました。そこに足を運ぶのは気が重くなります。この子たちはもうすぐ卒園をしていくのだと、否応なしに実感するからです。練習の様子を子供たちの後ろから見ていると、みんなそれぞれに成長して、ずいぶんとしっかりしてきたなと感じます。練習が終わって、お部屋に帰って行く子供たちが、「園長先生、またサッカーをしよう」と声をかけてくれます。なんだか、寂しそうな園長の気持ちを元気づけてやろうと、誘ってくれているような気がして、子供たちの心の暖かさに胸が詰まります。この子たちが生まれて、わずか6年しか経っていないのに、こんなにも心豊かに育ってくれていることをうれしく思います。

ホールからの帰り、うめ組さんの部屋を除くと、2クラス一緒になって、お誕生会のお菓子を食べています。部屋に入ると、「手品して!」とすぐさま声をかけてきます。「そうだね。長い間してなかったから、じゃあ、今から手品をするからしっかり見ていてよ」と数種類の手品を始めました。それを見ている子供たちは、本当に不思議そうに、驚いている様子がありありとしていました。その時の目がランランと輝いているのです。特に、最近転入してきた女の子は、私の手品を初めて見るのです。目を輝かせたまま、身体が固まっています。

子供たちの目の輝きを見て、思い出したことがあります。数年前、福島県から10人ぐらいの幼稚園の園長先生たちが見学に来られたことがあります。見学の後の、懇談の中で、「ここの幼稚園の子はみんな目が輝いている」と、開口一番に言われたことがあります。どこの子も目を輝かせているとばかり思っていた私には驚きの言葉でしたが、子供自ら興味を持ってすることには目を輝かせるのです