消えた子供(平成12年度)平成13年2月

近年、近くの空き地や野原で遊ぶ子供たち(小学生)の声を耳にすることは、ほとんどなくなったように思います。それも、10年以上、いや、すでに20年前頃から遊び声を聞くことが少なくなってきたような気がします。「ハーメルンの笛吹」と言う童話で、笛を吹く男に、町中の子供たちがついて行き、山の中の洞穴に、子供たち全員の姿が突然に消えて失踪する場面がありますが、それを思い出すほど、町の中から子供たちの遊ぶ姿が消えてしまっているのです。

 
昭和30年代後半から40年代にかけて、テレビが一般家庭に普及してきた頃から、子供が外で遊ばなくなってきたと言われ始めていました。近年では、「友だちと遊びたかったら学習塾に行きなさい」と言われるくらい、外では遊んでいないのです。学習塾に通う児童が増えたことや、テレビアニメだけではなく、20年くらい前より、ファミコンゲームが子供たちの遊びの中に急速に入り込み、外での遊びを奪ってしまったのでしょう。


1999年の「小学生白書」(学研)によると、最近の子供たちの「最大の関心事」と「よくやる遊び」は、男子では、1年生から6年生までのすべての学年の子が、テレビゲームを1位にあげています。そして、「今欲しいもの」では、男子が、1位・ゲームソフト、2位・パソコン、女子は、1位・パソコン、2位・ゲームソフトとなっています。それほどまでに子供の生活の中にテレビゲームやパソコンが入り込んでいるのです。学校の教室にもパソコンがずいぶんと増えてきました。教育目的のためなのですが、自在に使えるようになり、子供たちの生活の中にますます入り込むことは間違いありません。私たち大人は、「子供の遊び」と言うとき、空き地や広場、川や野原で遊んでいる姿を思い浮かべる人の方が、大半を占めると思います。今の子供たちが大人になって、「子供の遊び」を思い起こすときには、おそらく、テレビゲームやパソコンで遊んでいる姿を思い浮かべるのでしょう。テレビ放送の制作者側は、子供たちの関心を引きつけるために、子供の成長に配慮を欠いた、あの手この手の番組を制作しています。私たち大人は、子供の成長にとって、友だちと一緒になって外で楽しく遊んでいる姿を、好ましい姿として受け止めることができますが、今の子供たちが大人になったとき、子供にとって好ましい遊びとはどのようなものを思い浮かべるのでしょう。


テレビゲームをしたり、テレビ漫画を見ることがすべて悪いとは言いませんが、問題は、テレビゲームやパソコンが、子供の生活の中にしめる割合が、余りにも大きすぎるのではないでしょうか。テレビゲーム等で何時間も遊んでいるのをもっと制限することを考えてやらないと、人間として成長していくうえで、何か大きな障害を起こしてしまう気がしてなりません。


ずっと以前、25年ぐらい前でしょうか、家の近くの、電柱のトランスに落雷があったときに、逆電圧とかで、我が家のテレビが壊れ、修理に1ヶ月余りもかかったことがありました。そのとき、夫婦での会話がずいぶんと増えたのです。テレビが故障したことで夫婦での会話がいかにテレビに奪われていたかに気付かされたのです。

そのときに、会話が増えたことで、結婚しているのだという実感を、あらためて持ったのです。テレビのない楽しい生活を今でもはっきりと記憶しています。テレビがなかったら、家族での会話がいっぱいいっぱい増えるのです。

子供たちがテレビを見たりゲームばかりをしているからと、「テレビを見るのはやめなさい」、「ゲームばかりしていないで……」と、いくら注意してもやめてくれません。それよりも、家族で話し合って、週に1日で充分だから、「テレビのない日」をつくってみたらいかがでしょう。家族全員が見ないのです。テレビをまる1日見ないことに決めるには、親の方に相当の決断がいるかもしれません。でも、一度やってみてください。最初はとまどっていても、テレビがないことで、家族での会話がいっぱい増えます。子供たちの遊びが変わってきて、いろいろと工夫した遊びが見られるようになってきます。親の方も心のゆとりができて、子供への接し方も穏やかになってきます。親にも子供にも時間と心の余裕がずいぶんとできてくるのです。

そのことで、落ち着いて絵本を読んでやったりお話をしてやることも増えてきます。家事の手伝いや親子で一緒に遊ぶ機会も多くなって、家族との関わりがとても深くなってきますから、子供は親の愛情をしっかりと感じながら育ってくれるはずです。

子供たちだけではなく、お父さんお母さんも、テレビのない生活の楽しさや豊かさを知ったら、「テレビのない日」でなくても、余りスイッチを入れなくなるし、大切な話がある時や、何か他のことをしようとする時には、子供自らスイッチを切ろうとします。先に書いた、「ハーメルンの笛吹」はドイツの伝承話で、グリム兄弟が集めた「伝説集」にも収録されています。当時の、子供を粗末にしたり、おごりや欺瞞に満ちた大人たちへの警告の伝承でもあったのだと思います。私たちの大切な子供を心豊かに育てるためにも、少しばかり物の不足する生活が必要なのかもしれません。

越冬ツバメ(平成12年度)平成13年1月

以前にツバメのことを書きました。今年のツバメも、カラスに襲われることから守ってやりながら、無事巣立ちました。幼稚園の車庫の上に巣を掛けるツバメは、毎年、2回ほどひなを産み、今年は7羽ほど育ちました。秋も深まり、だんだんと寒くなってきたころ、数日、電線にいっぱいツバメが集まっていましたが、間なしに、南の国に向けて一斉に飛び立ちました。ところが、12月の始め、夜明けには氷点下2度にもなろうとしていた頃の夕方、ツバメ2羽が車庫の上の巣から飛び出し、電線にとまったではないですか。


「ツバメがいる!!」と、女房の叫び声に、そこに居合わせたクリーニング屋さんは、「違いますよ、ほかの鳥ですよ」といいながら、目を凝らして見ていて、「本当にツバメです!」と驚いています。


そういえば、10月初旬頃から、自家用車の上にツバメの巣から、泥や糞が落ちていましたが、ツバメの巣にスズメでも入って利用しているのだろうと、気にも留めないでいたのですが、なんと越冬ツバメだったのです。こんな寒いところで越冬するとは夢にも思っていませんでしたので、ツバメと知った途端、無事冬が越せるかどうか心配になってきました。寒くなれば虫だっていなくなるし、雪が降ればどうするのだろうと、いろいろと心配になってくるのです。実際、落ちた糞を見れば、夏の糞のように中身がありません。水っぽい薄い糞です。虫がなかなか見つからず、お腹いっぱいに食べられないのかもしれません。「家の中に入れることはできないか」、「小鳥やさんから虫を買ってきて車の上に置いてやったらどうか」と女房も心配しています。

しかし、越冬ツバメを実際見たのは初めてでしたので、どうしたものだろうと思案に暮れていました。そこで思いついたのが、インターネットで「越冬ツバメ」を検索してみることでした。すぐに出てきました。「越冬ツバメの観察記録」という、日本野鳥の会・熊本県支部の三田長久さんの、熊本県白川市での越冬ツバメの観察です。12月の初めには250羽位見られていたのが12月末には数羽しか見られないとの記録があります。


早速、メールを入れました。その日のうちに三田さんからの返事が返ってきました。「伊達さんへ:熊本も冬の朝は氷点下2、3度ぐらいにはなりますので、越冬ツバメのねぐらでは何羽かは落鳥しています。冬でも昼間はあたたかくなるので、虫が飛ぶらしく、川面で飛び回って採餌しています。自然に生きるツバメは、自分が選んだ環境で生き延びられれば子孫を残せるということだと思います。ただ見守ってあげるしかないと私は思います。三田」(原文のまま)


やはりさすがと思いました。「自然に生きるツバメは、自分が選んだ環境で生き延びられれば子孫を残せるということだと思います。ただ見守ってあげるしかないと私は思います。」という言葉に、偉く納得したのです。これが自然の摂理なのです。自然界の動物は、いろいろな天敵や日照り、暴風雨等の自然の厳しさや様々な困難に出会い、その中で生き残ったものだけが子孫を残していくのです。それは、強い子孫を残すことにつながるのです。強い動物は数少なくしか子供を生みません。弱い動物は数で勝負します。そうやって、自然の均衡がとれているのです。三次での越冬ツバメは、いつまでも暑く、冬の近づいたことを敏感に感じられなかった、今年の異常気象が原因しているのかもしれません。


21世紀がスタートしました。先のことから考えると、20世紀はその自然の均衡を破壊してしまった世紀でもあったように思います。特に、後半の50年はその顕著たるものでした。戦争はともかくも、農薬や排気ガス、生活排水や工場排水、ダム建設や河川改修、港湾での建設工事、工業や農業のための海岸線や湖の埋め立て、住宅や工場団地建設のための山を削っての団地造成、埋め立てゴミやダイオキシン等々、数えればきりがありませんが、これらのすべては、人間の生活や経済の向上発展、災害防止と財産保持等のためでした。


このように、限りなく自然を破壊している人間の姿は、地球の自然回復力の限界を超えてしまい、人間や動植物が地球に存在することすら危ぶまれる始末です。オーストラリアのように、オゾン層の破壊で強い紫外線のため、子供たちは、防御服やサングラスをかけて生活しなければならない国も出始めました。南極や北極の氷も溶け始めて、すでに、南洋諸島の島では海岸線にそった低地が、だんだんと海の中となり始めたのです。自然の均衡がとれなくなり始めているのです。

この新しい21世紀に生きる子供たちを、一生懸命育てられているお父さんやお母さんのように、たちまちの子供の健康や幸せが心配になってきます。私たち大人がしなければならないことは、子供や孫、その先の、またその先の子供たちのためにも、自然を守り大切にして、地球環境を、弱い動物や魚、蛍やメダカも住める環境を取り戻す努力が必要です。それは、自分自身が破壊者にならないよう、少しでもゴミを減らすようなこと、意識すれば誰でもできる、一人ひとりが身近なことから始めるしかないのです。21世紀の始まりに、世紀をまたいだ越冬ツバメが教えてくれました。

遊び込む(平成12年度)12月

先日、東広島市の保育園の園長先生たち10人が、幼稚園の見学に来られました。来られた時間が3時過ぎで雨が降っていたので、「プレイルーム」の子供たちが部屋で遊んでいる様子を見られたのですが、一応に驚かれたのが、どの子もしっかりと、それぞれに「遊び込んでいる」ということでした。どの子もみんな想いおもいのあそびを、夢中になって、しっかりと遊んでいるのです。夢中になってあそびに没頭し集中していますから、とても静かです。それが子供たちの「遊び込んでいる」姿でもあるのです。

ついでに触れておきますが、よくご存じのように、「プレイルーム」は延長保育(預かり保育)の施設です。幼稚園が終わって、45人の子供たちが「プレイルーム」に帰ってきます。年長・年中・年少児と異年齢が入り交じっての生活となります。保護者の方が迎えに来られるのが、夕方5時、6時となりますから、子供たちにはしっかりと遊ぶ時間があります。この日は雨が降っていたので室内でのあそびでしたが、毎日、日が暮れそうになるまで園庭で遊びます。小川で魚やトンボのやごを掴まえようと必死になっている子もいれば、昆虫や虫を探す子、砂場で遊んだり木に登って遊んでいる子もいます。伝承遊びやサッカーボールで遊ぶ子もいます。異年齢の友だちがグループになってそれぞれが遊んでいるのです。その様子を見ていると、昔の子供の「遊びの集団」が甦ったような感じすら持ちます。


このように、子供の「遊びの集団」が成立するには、時間・空間・人間の三つの「間」が重要な要素となります。普段の、幼稚園の子供たちの生活も同じことがいえます。この三つの「間」を保障してやることで、子供たちは、命を甦らせたように生き生きと目を輝かせて遊びます。「間」の保障された子供たちは、自然物や様々な素材を利用し活用しながら、自らあそびを創り出し、そのあそびの中で、その子ならではの発想やアイデアを生かしながら、夢中になって遊びます。

そして、そこでの仲間と関わりを深めながら、あそびを展開していきます。大人から指示や命令されてするあそびではないので、自発的なあそびなのです。そこでは、自己を十分に発揮します。自己を発揮しながら、没頭して遊ぶことで、困難や心の葛藤を味わいながら、その目的を果たしたとき、満足感や達成感をしっかりと持ちます。そのことが、次なる活動の意欲や目標を生み出す大きな動機付けとなり、原動力となっているのです。これらの繰り返しの中で子供たちは自己を充実していくのです。


お父さんお母さんの子供の頃には、まだまだ、しっかりと遊ぶ環境が残っていたと思いますが、今の子供たちに、この「遊び込む」環境がどれだけ残っているか、改めて考え直さなければならないように思います。これは、「空間」としての、子供たちが安心して遊べる自然環境が悪化してきたこともありますが、そのことよりも、私たちの生活そのものの在り方が、子供たちをして、「遊び込む」環境から遠ざけているのではないでしょうか。


子供が、ゆったりじっくりと遊び込める「時間」と、子供同士が深く関わり合うことのできる、「人間」関係としての「間」が、今日の幼児や児童の生活の中から消えつつあるような気がしてなりません。なにかしら、子供の生活が忙しすぎるような気がします。幼児の場合、子供たちだけで遠くに遊びに行かすことはできませんが、空き地や広場で小学生児童の遊ぶ声など聴くことが余り無くなったことに気付かれると思います。子供たちが仲間と遊んでいる姿をほとんど見ることができません。


今、子育てをしているお父さんお母さんは、どの時代もそうですが、はじめて親としての経験をしています。それだけに、とまどいながらの子育てもやむを得ないのかもしれません。おそらく、自分の、子育ての在り方の見本は、意識していようといまいと、その原形は、自分を育ててくれた親がベースとなっているはずです。それをベースに、自分たちの子育てについて、試行錯誤しながら親業をやっているのではないかと思います。


ところが、時々忘れてしまうのが、自分の、子供の時の気持ちです。友だちと空き地で遊ぶことがあんなに楽しかったのに、「遊んでばかりいないで勉強しなさい」といわれて、「今、勉強をしようと思っていたのに、勉強をしろといったから、もうしない」と、訳も分からない反発をしていたときの、子供の頃の、自分の気持ちをしっかりと思い出すことが、我が子の気持ちを理解する大きな手がかりとなります。

皆さんよくご存じの、サン・デグジュペリ作「星の王子さま」の巻頭書に、『おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。』というくだりがあります。子育ての上手な人は、いかに自分の、子どもの時の気持ちをしっかりと覚えているかが、キーポイントになるように思います。子供たちの人間的な感覚を研ぎ澄ますには、自らの興味や好奇心に誘発されて、仲間と関わりながら、時間を忘れて「遊び込む」ことを体験する「間」が保障されなければならないのです。

思春期(平成12年度)11月

今年の3月のことです。3学期の終わり2週間前に、中学2年生の男の子を持つあるお父さんが、私のところに相談に来られました。その息子が、担任にかなり反発していて、授業中、先生が黒板に向かって何か書いているとき、スリッパをなげつけたのです。それ以後も、時々、担任に反発しては、似たような事件を起こすのだそうです。親は何回も学校に呼び出され、そのたびに謝り、子供を引き取って家に帰ってきていたといわれるのです。


相談に来られたその日も、父親が学校に呼び出されて、校長先生が、その子に厳重注意を与えた後、子供の前で、「お父さんも今夜しっかりとしかってください」といわれたそうなのです。そのことがあって子供も、「明日から学校には行かない」と言い出すし、自分の性格では叱ることも苦手だし、どうしたものかと悩んだ末、私のところに相談に来られたのです。詳しく訊いてみると、スリッパを投げたのが最初の事件で、その発端は、教室にある備品が壊されていたことで、担任から、いきなり、「おまえがやったんだろう!!」と、頭ごなしに叱られたことが、荒れる引き金になったようです。そのうえ、その担任の方は、怖くて登校拒否?を起こしているというのです。外の先生に対してはそのような反発の態度も余り見せないし、特に、教頭先生を尊敬していて、叱られることもよく叱られるけれど、いろいろな相談相手にはなってもらっているようでした。


そこで私は、お父さんに向かって、「じゃ~、教頭先生に話してもらったら?」というと、「その教頭先生が、転勤になるらしいと聞いて、本人がショックを受けている」といわれるのです。そこまで訊いたとき、「あ~、この子は立ち直る」と直感しました。まだ、子供と会って話を聞いていませんから、本当の気持ちは分かりませんが、担任に対する不信感は持っていても、大人を信頼する気持ちは、まだ、しっかりと持っていることだけは確かなように感じました。


その時のお父さんに対するアドバイスは、「校長先生や教頭先生から、何回もしかられたり注意を受けても直らないということは、 今夜、お父さんが叱っても反発するだけで、解決にはならないと思いますよ。思春期の悩みは自分と自分との心の葛藤なのです。自分で何かの悩みを解決できずに荒れているのだから、しかることより、心の悩みを引き出せるよう、語りかけるようにしてやってください」というような内容でした。それでも不安そうなお父さんに、今夜、子供が帰ってきたら、「そんなに荒れているのも、おまえも何か悩んで苦しんでいるのだろうから、お父さんに話してごらん。きっと楽になるよ」というような言い方で話してみてください、と伝えて帰ってもらいました。


その後、気になっていたので、春休みに入った間なしに、家を訪ねました。お父さんは留守でしたが、お母さんと1時間ぐらい話ができした。訊いてみると、お父さんが相談に来られ夜、アドバイスのとおり、なにか話し合ったようです。お母さんが、「何を話しとったん」と訊いても、お父さんも息子も「べつに」といって話の内容は訊けなかったそうです。
ところが、次の朝、「今日、学校に行く。担任にも謝る」と、ずいぶんと明るくなって学校に行ったそうです。まだ、荒れているのがすっかり直ったわけではないのですが、だいぶ素直になってきた感じがするといっておられました。


お母さんと話をしていて、お母さんの干渉の有り様も気になりました。それは、「息子が、夕方6時に帰るといってあそびに出て、10分過ぎても帰らなかったら、心配で、遊びに行った場所まで探しに行き、物陰から確認する」といわれるのです。もう少し、子供を信頼して、心配しすぎるその姿勢も考え直すよう話しをして、その日は帰りました。


それから7か月が経ちました。最初に相談に来られたときに、お父さんに読んでもらおうと思って渡していた2冊の本を、先日、返しに来られました。私は、出張のため、車に乗ろうとしていたときでしたので、時間がなく、詳しく話を聞くことができなかったのは残念でしたが、「どう、変わってきた?」と訪ねると、「まだ完全にとまでにはいかないが、ずいぶんと落ち着いてきた」といわれ、胸をなで下ろしたのです。


子供たちは、思春期には、いろいろなことで悩みます。社会の在り方や大人に対しての矛盾や不信感、人生に対しての不安や性欲衝動、恋の悩みに直面します。たいていの場合、いろいろなことに悩みながらも、心の中で葛藤しながら、自ら問題解決していきます。
この問題解決能力は、幼児期から児童期の育ちの中で、具体的で直接的な体験を通して育みます。楽しさや喜び、悲しみや悔しさ、恐怖等、感動したり我慢することを通して獲得していきます。その発達年齢に応じた、解決できる程度の体験をしっかりしていることが、困難や人生の壁にぶつかったときの、問題解決能力の原動力の基となるのです。

ありがとう(平成12年度)10月

9月も半ばを過ぎた頃、園庭で遊んでいる子供たちが、私を見つけるなり近づいてきて、「園長先生、ありがとう」と言います。何のことかと思ったら、「トーマス号(森の機関車ウッディー)を買ってくれてありがとう」、「石のテーブルをありがとう」と言います。プールが完成した9月の初めにも、「園長先生、新しいプールをありがとう」と、子どもたちが言ってくれていました。

なぜ、「園長先生、ありがとう」と言うのでしょう。それは簡単なことで、新しい遊具が入ったりすると、先生たちが、ホールでの集会や、それぞれのクラスで、「園長先生が買ってくれちゃったんよ」と、話してくれているからなのです。誕生会のようなときのケーキやおやつにしても、「園長先生が買ってくれちゃったんよ」と言って配ってくれていますから、「園長先生ありがとう」と言ってくれるのです。

このことは何を意味するかというと、先生たちが、子供たちに感謝の気持ちを育んでくれているのです。それと同時に、「園長先生は私たちのことを思ってくれている」、「私たちの園長先生なのだ」と言う意識を持たせてくれているのです。私のような駄目園長であっても、先生たちが、「園長先生ありがとう」と言える子に育てることで、人を尊敬したり畏敬の念を持つことの基盤づくりになっているのです。

数年前にも園での講演で話したことがあるのですが、我が家の子育てで、一つだけ女房に感心したことがあります。それは、子供の下着や服1枚を買うにしても、「お父さんに買ってもらおうね」、「お父さんに買ってもらったのよ」と、必ず、お父さんをたててくれていたのです。女房が自分のものを自分で買ってきたときにも、「お父さんに買ってもらった」と報告します。

こうしてくれることで、仕事に忙しく、子どものことをかまってやれない亭主であっても、「お父さんに買ってもらったのよ」と、何か買うたびに言ってくれていると、子供はお父さんを尊敬しながら育ちます。

このことは、子供の育ちの中で大きな力となってきます。誰かに対して尊敬の念や畏敬の念を抱いて育つことは、他人に対してはもちろんのこと、自分自身も大切にできる人間にと成長させてくれるのです。

近年、共働き家庭が多くなっていますが、たとえ、お母さんの収入から買ってやったとしても、「お父さんに買ってもらった」と言って欲しいのです。それは、なんてたって、お母さんが生んで、お乳をやって、しかも、子供に対する細やかな愛情には亭主は勝てません。人間、怖いときや死に直面したとき、「おかあさん」と叫びます。それほど母親の愛情は深いのです。大抵の家庭では、子育てはお母さんが中心となります。お母さんのこまめで優しい愛情が乳幼児期や児童期の子供たちを心豊かに育んでくれます。それと同時に、このころの、父親の存在の有り様も大きく影響するのです。お母さんのように細やかではないが、おおらかな気持ちで見守ってくれている存在、何かあったときには頼りになる存在が父親としての役割となるのです。

このことは、子供が大きくなってくるほど要求されます。思春期を迎えたときや、人生のこと、将来のことについて悩んだりするときに、今までの父親としての存在の有り様が大きく影響するのです。人生のこと、将来のことについて相談相手として直接求めてくることもありましょうが、思春期のようなときには、ほとんどの子は親に相談しません。相談はしませんが、その子にとって、父親に対するイメージや存在の有り様が、自分自身で、悩みや問題を解決するときの、モデルや心の支えとなっているのです。

思春期は子供から大人に脱皮しようとして悩んでいるときです。非行に走るか、それを乗り越え希望に向かうかの分かれ道でもあるのです。その悩みの中で、子供自身の方向決定に、大きく関わるのです。離婚や死別でお父さんがいなくても、あるいは、新しいお父さんを迎えても、そのお父さんに対して、子供にいかによいイメージを持たすかが大切となってくるのです。

以前から、友達関係のような親子でありたいと願う親御さんがいらっしゃいます。友だちのような心を通わせる親子と言う意味では、たとえ、小さな子供であっても、一人の人間として大切にしていると言えるでしょう。それはそれで否定はしませんが、親に対する尊敬や畏敬の念を失うようでは、子供の育ちには悪影響となります。親子としてのけじめのある関わりが必要となります。

幼稚園児のような小さな子供に、「尊敬の念を持ちなさい」と言って育てても、意味がありません。子供にも理解できる、「ありがとう」と言う、感謝の念を植え付けることが基盤となるのです。それは日頃から、お母さんお父さん自身が、「ありがとう」と言う気持ちと言葉で実践することから始まります。そして、母親は、「お父さんのおかげで」と、父親は、「お母さんのおかげ」と、子供たちには意識して伝えるよう心がけて欲しく思います。

先日、年少児が舌を少しけがをしました。先生が病院に連れていったのですが、次の日、「園長先生、病院に連れてってくれてありがとう」と言います。きっと、お父さんかお母さんがそのように言うように教えられたのだと思います。すてきなことです。