飼育と責任(平成9年度)7月

5月の中旬に羊が死んでから子供たちは悲しい日々を過ごしていましたが、新しく子羊がやってきました。ニュージーランド村の方が、幼稚園の子供たちが悲しんでいることを知って、すぐに手配して下さったのです。悲しみの中にいた子供たちの喜び様は相当なものです。とにもかくにも、とってもかわいいのです。これから子供たちとの関りを深めていく中で様々なドラマが生まれることを楽しみにしています。

そんな中、ショッキングな事件が起こりました。ある小学校でウサギの赤ちゃんが5,6匹生まれたのですが、若い男の先生が子供たちの前でそれを踏み殺したのです。「死んでいると思った」、「子供たちが触ったので、もう親ウサギが育てないと思った」等、言い訳にも矛盾がありますが、そうかと言って子供の目の前で踏みつける理由などあるはずがありません。8年前にもウサギが増えすぎて困り、教頭先生が花壇に生き埋めにしてしまった事件がありました。子供たちが飼育しているウサギをどんな理由が有ったとしても、しかも、子供たちの目の前で殺してしまう神経をどうしても理解できません。


生き物を飼育するには大きな責任を伴います。その寿命を全うするまでしっかりと面倒をみなければなりません。その責任を全うすることに大きな意味があるのです。
最近、夜店にいく機会が無くなったので解りませんが、以前、ヒヨコに色を付けて売っていました。とてもかわいいので子供たちにせがまれ買って帰るのはいいのですが、まなしに大きな雄鶏にと成長してきます。そうすると気は荒いし、朝早くから鳴き叫ぶし手に負えなくなります。そこからどうするかが問題なのです。子犬もそうです。赤ちゃんの時はとても愛くるしいですから子供が欲しがれば飼うことになります。ところが大きくなるにつれて手に負えなくなるのです。餌をやったり糞の始末だけではなく、毎日散歩をしてやらなければなりません雨の日も雪の日もです。犬は鎖につながれて生活することには我慢ができますが、決められた時間の散歩を怠るとすごいストレスとなります。ストレスが貯まると足をかみ切るほどなのです。これも手に負えなくなります。


以前には、ヒヨコが大きくなって困り果て、幼稚園に持ってこられる方がよく有りましたが、一昨年のある日、夜中のうちにに垣根の中に鶏が投げ込まれて以外は、飼って下さいと持ってこられる方が無くなりましたので、最近は夜店では売っていないのかも知れません。犬も自分で帰ってこられないほど遠くに捨てられることがありますが、たいていの場合どこかで貰ってもらうことを考えます。捨ててしまう人よりも、どこかで飼ってもらえる方を探す人の方がよっぽど愛情があります。


しかし、ここで考えて欲しいのです。かわいいときだけ飼って手に負えなくなると、どこかに持っていくということはどうゆうことなのか、あまりにも都合が良すぎるような気がするのです。そういう人間の身勝手さを子供にそのまま教えていることにはならないでしょうか。少々手に負えなくなってもそこを我慢して、家族で協力しながら、最後まで飼っていくことを身を持って知らせていかなければならないのではないでしょうか。飼育の大変さや苦労の中から命の尊さを学び、愛情も楽しさも倍増するのです。責任感も大きく育まれます。それでもどこかに貰ってもらわないといけないやむを得ない事情というのがあります。そのときこそ、その事情を子供とともに真剣に考え、悩み、お互いに納得できるところまでしっかり話し合うことで命の尊さを知らしめるのです。


私の長女が小学校一年生の時、妹と一緒に友達の家に生まれた子犬を見せて貰って、家に帰るなり、母親にその子犬を貰って帰りたいと頼みます。母親は飼育することの大変さをしきりに話したそうですが、自分たちでちゃんとするからと言って聞きません。そこでお父さんに相談して、お父さんが飼ってもいいと言ったら貰ってもいいよということになりました。何も知らないで帰ってきたお父さんは大変です。目に入れても痛くない娘が頼むのですからすぐにでもいいよと言ってやりたいのですが、安易に飼うことだけはさせたくなかったので、飼うことの大変さを話しながら3日間も引き延ばしましたが、娘の気持ちがゆるぎないのを見計らって貰ってくることを許しました。

娘二人でしっかりと世話を続けましたが、そこはやはり子供です。その内、あまり世話をしなくなることも度々で、「世話ができないのなら捨ててしまうよ」と脅迫めいたこともありましたが、やはり、親が手助けしながら飼うしかありません。マックと名づけたその子犬は13年間、命を全うするまで、家族の一員として、子供の成長にとって大きな役割を果たしてくれました。今は羊と一緒に眠っています。

羊の死(平成9年度)6月

春になってずいぶんと温かくなってきましたので、5月2日に羊の毛刈りをしました。毛刈りをはじめて見る子供たちはその様子に釘付けになっていました。ふっくらとして大きく見えていた羊もスマートになりずいぶんと小さく見えます。以前には刈りとった毛を加工所に出して毛糸にしてもらっていましたが、今年はさっそく子供たちと石鹸で汚れをとり油抜きをしました。後日、みんなで毛をよりながら毛糸にするのです。

子供たちが世話をしている羊の毛を刈って、それをよりながら毛糸にしていくなんてどんなに楽しいことか、想像しただけでも気持ちがワクワクしてきます。 子供たちがいつも餌をやって親しんでいる羊ですが、毛を刈る様子を見て、今まで以上に羊に対しての興味を抱いた様子です。野菜くずなどの餌を持ってきて羊に食べさせている子がとても多くなりました。


そんな矢先、5月21日の早朝に羊が突然息を引き取りました。幼稚園に7歳できてから10年が経過して、あごヒゲもずいぶんと白くなり、ここ数年おとなしくなっていましたので、寿命かとも思います。その日の夕方、長い間、子供たちと仲良しでいてくれたことに感謝しながら、山に埋めてやりました。


羊が死んだことで、子供たちは様々な思いを抱いたようです。年少組の子供たちの中には、死んだことの意味が分からなくて、「起きて、起きて」といっている子もいれば、毎日のように、登園するなり、小屋まで急いで行って餌をやっていた子は、ショックも大きく、涙を浮かべ力を落としています。隣にいる山羊は寂しくていつまでも「メエーメエー」と泣き続け、子供たちのいない休日には、ずっと寝込んでいます。生きものとの関わりを深く持っている子ほどその死の悲しみが大きいのです。動物との関わりの中から優しさやいたわりの気持ちを育んでいるからです。その悲しみの中から、命の尊さを知り、生きていくことの大切さを学ぶのです。


その日は、それぞれのクラスで羊の死を知らせ、ともに悲しみながら、子供たちと死について話し合いました。子供たちは、「天国に行ったんよ、お祈りしよう」「ニュージランド村へ行っているかもしれんよ」「山羊さん 友達がいなくなってかわいそう」「毛を切ったから寒くて死んだんよ」「緑のビニール袋を葉っぱと間違えて食べておなかをこわしたんよ」「お葬式をしてあげんといけんね」「お墓ができたらお参りしてあげようね」等々、様々な意見が出てきました。子供なりに感じたことを話したり原因を探っています。そんな中、毎日、羊や山羊に餌をやっていた子が何一つ発言しないで、一点をみつめていたのが印象的でした。悲しみが人一倍大きいのです。


今は核家族の家庭がほとんどで、おじいさんおばあさんと、あるいは曾(ひい)おじいさん曾おばあさんと一緒に生活することも少なく、身近な人の死を目の前で体験することはほとんどありません。それどころか、ファミコンゲームで相手を簡単に殺してしまいます。「たまごっち」で育てていくはずなのに、殺す速さを争うと聞きます。このことがたんなるゲームで終わるのならともかくも、本当の死の悲しみを知らない子にとっては、簡単に殺せることへの快感が脳の中に感情移入されかねません。


幼稚園でいろいろな動物を飼育していますが、最初のうちは恐々としながらも興味を持って近寄ってきます。ときには、好奇心と怖さから石を投げます。これが、幼い子供たちの最初の関わり方です。その内、自分が安全であることが分かると、触ったり撫でたり抱いたりします。餌をやりたいという気持ちはその次に抱きます。かわいいから何かをしてあげたいという気持ちです。そうして動物との関わりを深めながら、愛情を深め、理解を深めていきます。年長組ぐらいになると餌をやるだけではなく、糞を処理したり掃除をしたりと身のまわりの世話をもするようになります。そのことを継続していくことには根気もいりますが、赤ちゃんの誕生の喜びや死の悲しみもあります。関わりが深ければ深いほど、その喜びや悲しみが大きいのです。

しかしながら、幼児が責任を持って動物の世話をし続けるにはまだまだ幼な過ぎます。そのことを援助してやり、支えてやるのが教師であったり親であったりするのです。教師や親が動物を嫌がったり怖がったりすると、その気持ちがそのまま子供に伝わります。


先日、お迎えに来られたお母さんが、「園長先生、ビニール袋を一枚下さい」と事務室に来られたので、「何に使われるのですか」と尋ねたら、「子供が捕まえたトカゲをどうしても家に持って帰るといってきかないんです」といわれるので、「お母さんへの素敵なお土産ですね」というと、「もう、最高のお土産!」といってニコニコして帰っていかれました。
このようにして、生きものとの関わりの中から、感受性を高め心豊かに成長していくのです。

十人十色(平成9年度)5月

朝、通園バスが着くと、新入園児のうめ組やもも組の子どもたちが、進級児の年中・年長組のお兄さんやお姉さんに手を引かれてバスから降りてきます。降りる時も両手でしっかりと支えてもらい、そのまま保育室まで連れて行ってもらっています。


新入園児を迎えてしばらくは慌ただしい毎日でしたが、保育室には担任の先生の他に4人の先生が、新入園児のいるそれぞれの部屋に補助に付いてくれていましたので、ずいぶんと早く落ち着いてきました。
新入園児の様子を見ていると、実に十人十色という感じがします。先生が「お部屋に入ろう」とやさしく誘っても、「わたし、これやりたいから入らないの」と、砂場でずっと遊んでいる子や、うさぎと遊んでいる子、滑り台で遊んでいる子と、自分の興味の有ることに夢中になっています。進級児も、新入児の扱いに戸惑いながらも、その様子をニコニコしながら見守っています。先生たちも、子どもたちが楽しく幼稚園に来れるようにと、無理に部屋に入れたりしないで、見守ってくれています。


その子たちの様子を見ていて嬉しいことは「いやだ」と、ちゃんと自己主張ができることです。児童精神医学が専門の大妻女子大学の平井信義教授も、《けんかもできない子であっては困ります。素直な面も大切ですが、「いやだ」と自己主張ができる面も兼ね備えている子こそ、心が正しく発達している証拠なのです。今の親は子どもの外面的な素直さだけを求めて、内面性の発達をふみにじっているきらいがあります。親にとって良い子は、逆に心身が正しく育っていない子である場合が多いものです》と話されています。


母親の意識の中には、何でも「ハイ」と素直に聞いてくれる子が「良い子」の条件と考えている人が十人中九人いるといわれています。確かに、「おだやか」、「やさしさ」、「素直」、「ききわけがある」というようなことは人間にとってとても大切なことなのですが、まじめなお母さんにとっては、もう一面の大切なことが見えなくなることが多々あるのです。
子どもたちはもともと、目の前に何かがあれば、触ってみたい、曲げてみたい、つなげてみたい、たたいてみたい、登ってみたいなどの欲求心にあふれているのです。どうすれば触ることができるか、どうすれば登ることができるか常に頭を働かせています。こんなに興味を持って、意欲を持って行動しょうとしている子どもに「あれもダメ、これもダメ」と言ってしまっていることが多いのです。
確かに、子どもの行動にいちいち干渉し、口やかましく言っていれば、「おりこうさん」は作れます。また、お母さんのいうことはなんでもよく守り、教えられたことはよく覚えていくよい子にはなるでしょう。


しかし、そのように育てられた子が、何かの問題にぶつかったときには何もできないし、新しいことや未知の問題に取り組もうとする意欲や能力は育まれないのです。その上、反抗期や思春期に必ずといっていいぐらい心の問題となって出てくるのです。今までの「お利口な子」が一変します。 子どもの知能や意欲や創造性を伸ばそうと思ったら、お利口にするしつけに偏ってはいけないのです。
そうだからといって、しつけを否定しているのではありません。家庭も一つの社会なのですから、その構成員として秩序を保つことも必要ですし、社会生活を送るのにも大切なことなのです。しかし、親が、大人の都合だけを優先したしつけにこだわり過ぎると、子どもの意欲や創造性を押さえてしまうことになりかねないのです。


人間、十人十色です。一人ひとりみんな違うから素晴らしいのです。その一人ひとりの違いを認識しながら、その子その子の良い芽を伸ばしていくことが大切なのです。良い芽を伸ばしていくと、悪い芽が消えていくのです。逆に、悪い芽を摘もうと思って厳しくしつけるとよい芽も摘まれてしまいます。よい芽を伸ばすには、その子の良いところをしっかりと認めてやることがとても必要なことなのです。「のびのび育てる」には、子どもの興味や関心を保障してやることです。そして、お母さんが楽しんで
「のびのび子育て」をすることが一番なのです。

良い子(平成8年度)平成9年3月

京都大学で臨床心理学が専門の菅野信夫先生からこんな話を聞きました。京都大学の中に保健管理センター学生懇話室というのがあって、毎週、大勢の学生が悩みを抱えて訪れるのですが、受験戦争に勝ち抜いてきた彼らが、入学してから一気に無気力に陥ったり、友達と心を開いて話ができず対人関係が結べない等、様々な現象が見られるのだそうです。その根底を探っていくと「幼児期」という共通の問題が横たわっていることがはっきりしてきたというのです。その共通の問題とは、幼児期に手がかからない「良い子」であったということです。それが大学生になって手がかかる子供に変身したのです。その原因として、彼らが幼児期にそれぞれの段階でクリアすべきであった発達段階を未解決のまま青年期まで引きずってきたことが考えられ、「青年期をどう生きるか」は「幼児期をどう生きたか」に密接にかかわっており、この意味において「幼児期の心とその発達」の重要性を強調されました。 

そして、『一口に「良い子」「悪い子」と言うけれども、考えてみると「誰にとって」なのかというと、大概の場合は、「親」にとって「良い子」「悪い子」なのではないだろうか。「不登校」の場合を例にとってみても、これは誰にとって都合の悪い行動なのか?ズバリ言って、親とか教師とかの周囲の大人にとってである。親が自分の価値観に基づいてわが子に抱く数々の欲求や願いに適応しないことに対して「悪い子」と呼び、親の言うがままに(自分を殺して)適応に努めている子を「良い子」と思ってはいないだろうか。しかし、その「良い子」も成長を遂げる課程で親の価値観や信念体系に疑問などを感じ、批判的に不適応行動に出る』というお話でした。


先ほどの話の中にあった「それぞれの段階でクリアすべきであった発達段階」というのは、赤ちゃんは赤ちゃんのときに、幼児は幼児のときに経験しなければならないことをしっかりと経験しなければ、人間として望ましい発達をみることができないということなのです。
ところが、わが子となるとゆったりとした気持ちで育てることがなかなか難しくなるのです。友達が何か出来だすと、わが子がまだ出来ないことが気になり始め、急いで教えようとします。文字が読めたり書けたりする子を見ると、焦ってしまいます。そうやって段々と子供に指示ばかりして育てるようになります。子供の方も親の指示通りにしていると失敗もしないし、叱られることも有りません。「指示待ちっ子」の方がおりこうでいられるのです。親のいうことを良く聞いてくれますから「良い子」なのです。「良い子」からはみ出すと、お母さんも気に入りませんから、しつけも厳しくなります。


厳しく育てられたり指示されて育ったりした子には本来の子供の姿がありません。幼児期の子供は好奇心のかたまりで、いろいろなことに興味を示します。すごく興味を示したことに夢中になります。夢中になるということはそのことに集中していますから、服が汚れることも時間がたつことも忘れています。親から見たら乱暴に見えたりいたずらにしか見えないことがたくさんあります。「良い子」を育てているお母さんからは「悪い子」に見えます。そうすると直ぐに叱られます。「良い子」に育てられた子や厳しく育てられた子にウソをつくことがよく見られます。ウソをつくことで「良い子」であろうとします。他人のせいにして自分を守ろうとします。厳しく育てられている子は親の愛を感じません。親の愛情が欲しいためにウソをつき他人のせいにします。そうして、親が相手を叱って自分を守ってくれることで親の愛を確かめることすらあります。


子供は直接体験することによって大きく成長するのですが、それは好奇心が原動力となるのです。子供は興味を示したことのみ大きく心を開きます。そして、友達と関わりながら、いろいろなことに挑戦したり、触ったり見たりして確かめていきます。「子供の仕事は遊びである」と言います。その意味は、このことができると将来役にたつからというような効果意識が無いからなのです。今していることが楽しいからしているのです。楽しいから頑張るのです。もっと楽しくするために友達と協力したり、試行錯誤し、創意工夫するのです。子供たちの好奇心を満足できる生活を保障してやることが、子供の意欲や主体性、思考力や創造力、思いやりやいたわりの心の発達を保障することになるのです。
そういう生活をしっかり保障してやることが「幼児期の段階でクリアすべきであった発達段階」に当たるのです。


そのような生活を保障するためには「子供は遊びの天才」「いたずらの天才」なのだと見方を変えれば、子供を見守る心の余裕が出てきます。親の方に子供を見守る余裕が出てくると、目くじらをたてて叱ることも無いし、子供の素晴らしいところがいろいろと見えてきますから、本当の意味での「良い子」が育つのではないでしようか。それどころか、子育てがとっても楽しくなりますよ。

自ら学ぶ力(平成8年度)平成9年2月

1月29日は20センチ近い積雪です。子供たちは登園するなり園庭に出て雪あそびに興じています。かまくらや雪だるまを作ったり、ソリに乗って友達にひっぱってもらったり、雪合戦をしたりと、とても楽しそうです。中には、長いプラスチックの筒の先に雪を詰め、雪の吹き矢で遊んでいます。外階段では屋上の雪を運んできて踏み固め雪のボブスレーを作って上から滑って降ります。これはスリル満点で最高に楽しそうです。
園庭で子供たちが作った雪だるまの頭の部分を持ち上げるのを手伝っていると、後ろから園長めがけて雪を投げてくる数人の子がいます。振り向くと年少組の子供たちです。しかもその中に、今までは甘えて私の手をいつもひっぱってついて歩いていた子がいます。その子が、何回も何回も、園長をめがけて雪を投げてくるのです。嬉しくてジーンとしてしまいました。その姿に、しっかりしてきて、自立した様子が感じられるのです。


雪遊びが終わって、保育室に入った子どもたちを、カメラを持って追って見ました。年中組のクラスに入って見ると、机で作った二つのベットを並べ、その上に男の子が寝て、それぞれの腕や頭は紙の包帯で巻かれています。上からは、ヨーグルトのカップで作った点滴がぶら下がっていて、ピンクのタフロープがチューブになって腕に取り付けてあります。周りの男の子たちは、不織布や紙を使って作った白衣とマスクを付けて、ひもで作った聴診器や虫眼鏡を持って診察しています。「あなたの足は骨が折れていますね~。手術しますから入院してください」、「ハイ、注射をしますから痛くても我慢してください」。女の子は帽子を付け看護婦さんになって、カルテを持って書き込んでいます。「ハイ、今日はこれでいいですよ。次は来週の木曜日に来てください。お大事にね」と、その言葉かけやしぐさは実に堂に入っていて、本当のお医者さんや看護婦さんのようにテキパキと動いているのです。この遊びも、通院や入院の経験ある子たちが始めた遊びでクラス全体に広がっています。その周りには、段ボールでコーナーを作り、その中で何やらやっています。カップが一杯並べられ、ちぎった紙や砕いた発砲スチロールを入れて、こねまわしています。「ハイ、かぜ薬です。一日3回飲んでください。胃薬も入れときましたからね。ハイ、次の方!」。どうやらそこは薬局のようです。


年少組の部屋も、段ボールや空き箱などを使って、子供たちでいろいろなコーナーを作って、ままごとや粘土遊び、郵便ごっこや劇遊びをして楽しんでいます。年長組の子供たちも、小屋やドームやコーナーの囲いを作って、そこを生活の場として遊んでいます。どれもこれも子供たちで作って、ダイナミックな活動が展開しています。子供たちは自分たちの遊び(生活)をより楽しいものに、あるいは、自分のものとして獲得するために、試行錯誤しながら、創意工夫している姿がしっかりと見て取れます。その創意工夫の活動そのものが、自己の成長と変革を図り、創造的な人間の基礎作りとなるのです。


平成2年度から文部省の幼稚園教育要領が25年ぶりに改訂され、小学校の指導要領が平成3年、中学校が平成4年とそれぞれ10年ぶりに順次、改訂実施されました。その中に共通して出てくるのが「新しい学力観」です。これを「生きる力」という表現に置き換えています。
その内容は、これから生きていく人生の中で、様々な社会の変化に主体的に対応できる人間の育成を図る教育を中心に置くというものです。これらは、過去の教育のあり方が、知識の詰め込みを中心とした教育で、人間としての成長を歪め、思いやりの心に欠け、思春期の心の歪み、学力の低下、無気力、不登校、校内暴力、自殺、あるいは、社会に出てもマニュアルがないと、指示されないと、何もできないという指示待ち人間、等々、様々な問題が生じていること等の反省から、改訂されたものです。


それは、今までのような知識教育に重点を置くのではなく、学習意欲や理解力、思考力など「自ら学ぶ力」をつけるのが21世紀を生きる子供たちへのこれからの教育なのです。この幼稚園が、10年余り前から、園の研究主題として取り組んできた「子供主体の保育」は、子供たち一人ひとりが、周りの事象や環境に自ら興味や関心を持ち、自発的に関わり、自分で考え工夫し、試行錯誤しながら、友達と関わりながら、継続しながら、意欲を持って目的を達成していく子供主体の生活が、生きる力と小学校で基礎・基本を学ぶための基盤作りとなるのです。正に、「自ら学ぶ力」の能力開発であり、「真の知的教育」なのです。そういう子供たちの生活を通して文字や数、形への興味や知的好奇心も育まれ、本物の知識を獲得し、自ら工夫し新しいことにも意欲を持って創造的な生活を送る中で心豊かに育っていくのです。
ずっと先のことにも触れますが、わが子が受験する頃には、新しい学力観にたつ入試も増え、今までのような教えこむ教育では対応できなくなるのです。