12月8日の発表会の前日、プレイルームに行くと、先生が「ね、園長先生、明日、文化会館にサンタクロースがくるんだよね。」と、相槌を求めます。子供たちに本物のサンタクロースが来ることを信じさせようと話している最中だったのです。
「えっ、ほんとう。知らなかったなぁ」と言うと、すかさず、3歳の女の子が「園長先生、知らんかったん。じゃけぇ、教えてあげようおもっとったんよ!」と、得意そうに言います。
発表会当日、うめ組の舞台にサンタさんがやってきました。サンタはその子の頭をそっと撫でてやりましたが、真剣なまなざしで、サンタの顔を見つめていました。
20日は、幼稚園でのクリスマス会です。19日の餅つきが終って、自分たちの作ったお餅を入れたおしるこを、みんなで食べながら、やはり、本物のサンタさんがやって来ることを信じさせようと、先生たちは、いろいろな楽しい話を聞かせています。
当日は、先生たちの凝った演出のもとで、クリスマス会が催されましたが、3、4才児は信じきっています。5才児の多くの子供たちも信じていますが、何人かの子供たちは半信半疑です。園長先生がサンタになると言い切っていた子は、園長の姿を見て、「じゃ、運転手のおじちゃんだ」と振り向くと、運転手の姿を発見し、困った様子です。そこへ、演出たっぷりで、サンタの登場です。「ほら、本物のサンタさんでしょ。中央幼稚園には本物のサンタさんが来てくれるんだよ」と言うと、「うん」と、もう、すっかり信じています。
子供たちには夢があります。昔話を聞いたり絵本を読んでもらうと、その話の中に入り込んでいきます。言葉や絵からイメージを膨らませ、現実と空想との区別がなくなり、心の中で一体化してきます。
7年度の園だよりの「園長の絵本講座」でも書きましたが、サンタクロース(に限らず、魔法使い、妖精、鬼、龍、仙人等々)の存在を信じることは、そのこと自体が子供の心に働きかけて、信じるという能力を養い、成長につれていつかその子の心の外に出て行ってしまいますが、サンタクロースが占めていた空間は、新しい住人、つまり、目に見えない一番崇高なものを宿すかも知れない、サンタクロースの部屋、つまり、「心の箱」を育んでいるのです。目に見えないものを信じるという心の働きが人間の精神生活のあらゆる面で、とても重要なのです。
皆さんは、お正月はいかがお過ごしでしたか。それぞれに心を新たにして輝かしい新年をお迎えになられたことと存じます。
子供たちにとっても楽しいお正月になりましたでしょうか。
私事ですが、年末に、杵と臼を使って家族で餅つきをしました。もちろん、機械でついたお餅よりも美味しいお餅ができるのですが、そのことよりも、餅米を蒸して、杵でつくことの時間の流れ、家族と共に過ごす時間の流れの心地良さを久しぶりに感じることができました。田舎で育った私は、高校を卒業するまで、お正月用に限らず、めでたいことがある度に餅つきの手伝いをしていましたが、その頃の、日々坦々と過ごしていた思い出と重なり、改めて昨今の慌ただしさの中に埋没しそうな自分に気付き、もっともっと心豊かに過ごすことに心がけなければと思いながら新年を迎えました。
日本には世界に誇ることのできる永い歴史と文化が有り、その中に様々な伝統行事が有ります。そのことが、その年その年の、あるいは、季節季節の節目であり、生きていることの節目となり、自然の摂理の中で活かされていることの感謝の念も抱きます。今年も元気に過ごせるようにと、昨日7日も「七草がゆ」を戴きました。
いろいろな行事が消えて行く中で、子供たちの伝承的な遊びの文化も無くなってきました。そんな中で、伝統的な行事や伝承遊びを少しでも経験させてやりながら、子供たちを心豊かに育んでいきたいと、職員一同、心新たにしているところです。
1、2学期と様々な経験をして過ごした子供たちは、物事に自発的に取組み、友達関係も深まって、幼稚園生活が楽しくて仕方がないという様子です。三学期は、今までの園生活の中で育まれたことを土台として、進級・進学を楽しみにしながら、一層、充実した日々を過ごさせてやりたいと思います。保護者の皆様のご支援をお願いいたします。
1997年1月11日 2:29 PM |
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今年の市内のある小学校の運動会が終わった間なしの頃、幼稚園の頃から走ることが速かった卒園児が、弟を迎えに、お母さんと一緒に幼稚園に来ていたので、「リレーに出た?」と聞くと、「ううん」と首を横に振ります。そのお母さんの話によると、毎年、走るのが速い子ばかり出るから、遅い子も出れるようにと、今年は足の速い子からは選ばないことにしたそうなのです。それを聞いて以来、心の隅にずっとひっかかるものがありながらも時を過ごしていました。
みなさんは、このことをどのように感じられますか。確かに、「いつも5位か6位で徒競走が苦痛だった。」あるいは逆に、「足が速かったから走るのがすごく楽しかった。」といった思いを大人になっても覚えています。そういう思いからか、今年は、走るのが遅い子を選手にして走らせたというのです。一見、思いやりのある配慮のように感じます。しかし、足が遅いからと選ばれた子供の気持ちはどうでしょう。リレーの選手に選ばれたからと喜んだでしょうか。屈辱以外の何ものでもなかったのではないでしょうか。そもそもリレーはクラス対抗であれ、地区対抗であれ、紅白リレーであっても、速さを競うものです。全員出られればそれでいいし、人数に制限があり選手を選ぶなら、速い人を選んで、みんなの代表としての競走なのです。自分たちの代表だからこそ応援にも熱が入ります。
人間みな得手不得手が有ります。自分は勉強が苦手だけど、走るのだけは得意だという子もいます。運動は苦手だが本を読むのが大好き、虫が大好きだという子もいます。国語は苦手だが、算数が得意、いや、自分はサッカーが得意、泳ぐのが得意、野球が得意、木に登るのが得意という具合に苦手なものもあれば得意なものもあります。遅いけど最後まで頑張るという根性の持ち主もその子の良さなのです。苦手なことがあっても何か一つでも得意なことがあるからこそ自分に自信が持てるのです。別に勉強や運動でなくとも、優しさとか思いやりの気持ちは人一倍あるということも、その子の素晴らしさなのです。
その自分の得意なことや良さを発揮できるから、そのことを周りが認めてくれるからこそ、自分に自信が持て、生きていく力となるのです。
話は元に戻って、走るのが遅い子への配慮から、選手に選ばれなかった足の速い子の気持ちはどうでしょう。もしかしたら、走ることの遅い子は勉強が良くできていて、足の速い子は走ることだけには自信があったのに、それまでも奪われていたとしたらその子は立つ瀬が無くなってしまいます。
人は一人ひとり皆違います。その違いを認め合い、相手を認め合うからこそ生きていくのが楽しいのです。
最近、各地の中学校や高等学校で、テストや体育大会の中止を求めての「自殺予告」の電話や手紙で、その対応に学校がほんろうさせれた事件が続きました。そのことで、中止や延期にした学校もあれば、予定通り実施した学校もあります。その中で、予定通り体育大会を実施した大阪・寝屋川市立第6中学校の出来事の一部を紹介します。
【体育大会を中止して下さい。無理なら集団演技だけにして下さい。してくれないと学校に行けません。いつもみんなに『おそい』といわれています。先生はおそい子の気持ちを考えたことがありますか?もう死にたいくらいです。お願いします。】
この体育大会の中止を求める手紙が届いた数日後、緊急の全校集会を開き、千人を超える生徒の前で校長先生は「自分の悩みを打ち明けてくれてうれしいと思う。いろんな悩みや考えをもった人が集まっているのが学校です。自分との違いをもった友達がいることを認めて欲しい。そして、いろんな悩みをもった友達の立場にたって一緒に考え、手を差し伸べて欲しい」と切々と語りかけ、その上で、「体育大会は予定通り実施したい。そのためには、一人ひとり先生と一緒に手紙の内容について考えて欲しい」と訴えました。
その日の午後、3年生の女子生徒が、「校長先生。もし、手紙を書いた人を知っていらっしゃるのなら、その子に渡して欲しい」と一通の手紙を差し出しました。それには、次のようにつづられていました。
【私も小学校のころ、走るのが苦手で毎年のようにある徒競走が嫌いでした。でも、小学校2年生の時、クラスで同じように走るのが苦手な子が「運動会にでたくない」といいだしました。そのため、クラス会を開き、みんなで意見を出し合いました。その時、私はとても驚きました。
なぜなら、「僕はオンチだから音楽の時間が嫌いだ」とか、私は字がキレイではないから、お習字の時間が嫌いだ」etc……
皆、ふだんは何でもできますというような顔をしているのに、その人たちでも「苦手な事があるのだなあ」と、とても安心したのを覚えています。だから、走るのが苦手なあなたでも他人に負けない何かがあると思います。私はそれを見つけることができたので、それほど走るのが嫌では無くなりました。(中略)
それから、私はあなたの意見に一つだけ反対したいことがあります。それは、あなたは「みんなから足が遅いといわれる」と書いていたそうですが、みんながみんな「遅い」というわけではないでしょう。きっとあなたを応援してくれる人だっているはずです。あなたがそれに気づいてくれるといいなと思います。(中略) 嫌な事から目をそらしていると、いつか楽しいことも見えなくなっちゃうよ。走るのが速くても遅くても一生懸命走れば、そのあなたの一生懸命がきっとクラスの人に伝わるはずだよ。だから頑張ってください。】
それを読み終えた校長先生は感動とうれしさの余り、「ありがとう」と生徒の手をギュッと握りしめ、その生徒の了解のもと、全校生徒に各担任が読んで聞かせました。もちろん、体育大会は感動の内に終わりました。
みなさん。いかがでしたか。最近、みんなと同じでないといけないと考える風潮が強くありませんか。みんな同じでないといけないから異質なものに対して「いじめ」が起こるのではないでしょうか。「個性を伸ばす。特性を伸ばす。」ということは、その子その子の得意なところや持ち味を生かす教育なのです。違いを作ることなのです。そのことが、自分自身の自信となり、人との違いを認め合い助け合い、環境の変化にも対応しながら、人間として生きていく力となるのです。違いを認め合うことができたら、「いじめ」も無くなるのではないでしょうか。
1996年12月11日 2:19 PM |
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幼稚園の園庭は、今、“かえで”の紅葉した落ち葉でいっぱいです。
子供たちと園庭で遊んでいると、後から背中をポンポンと誰かがたたきます。振り向くと3歳の女の子が、真っ赤や黄色に紅葉した美しい落ち葉ばかりを集めて、手にしっかりと握り締めています。私の方にそれを見せながら、“にこっ”として何も言わずに去ろうとします。私もにっこりして、「きれい!」と言いましたが、何の言葉もいらないほどうれしそうな顔をしていました。
園庭には、落ち葉だけではなく、どんぐりもいっぱい落ちてきます。朝早いと、誰も拾っていませんから、どっさり落ちています。
一番に登園してきた、やはり、3歳の女の子が、牛乳パックに山盛りになるほど集めて、「こぼれちゃうよ」と、うれしそうな顔を見せてくれます。「いっぱい拾ったね」と、私も微笑みます。
どちらの子にも、一声はかけましたが、このようなとき余り言葉はいりません。子供のうれしい気持ちに、さりげなく共感してやることが大事なのです。子供の「美しいと感じた心」、「うれしいと感じた心」を大切にするためには、大げさな反応は、その余韻を壊してしまうからです。目と目が合って、うなずくだけでも、子供は、大人が自分の気持ちを受け止めてくれていることを感じとります。それは、自分が認められているという、心の安定感につながります。それが、「共鳴する」、「共感する」ということで、そうしてもらうことで、その感情を確かなものにしていくのです。子供の気持ちを汲みとるコツは、そのままの姿を受け入れることです。直ぐに何かを教えてやろうとすることではなくて、先ずは、子供のそのままの気持ちを受け入れるのです。私たちは、このことを「受容する」と言っています。「あるがままの姿を受容し、共感する」、これが幼児理解の出発点なのです。
ところが、我が子となると、そういう対応の仕方ができないことが多々あります。忙しくしていると、「もう、そんなもん拾ってばかりいないで」と、ついつい、言ってしまいがちです。忙しくても、心の余裕は持ちたいものです。「今、子供の感性が育まれているのだ!?」と思い直せば、少しは見守る心の余裕ができるかも知れません。
園庭で拾った落ち葉やどんぐりは、大切にロッカーにしまい込む子供もいれば、ままごとに使って遊んでいる子もいます。年長組になると、首飾りを作ったり、いろいろな製作の材料に使っています。
子供たちは、いろいろな「もの」や「こと」を何かに見立てて遊びます。花の汁やヨウシュヤマブドウの実の汁はジュースに、泥水はコーヒーに、葉っぱはおかずに、砂はごはんに、どんぐりの実は砂で作ったケーキのデコレーションにと、自分の生活経験の中から得た知識に連動させ、「みたて」て遊びます。
これらを遊びとして成立させるために、「つもり」になります。「つもり」というのは、お母さんの「つもり」、赤ちゃんの「つもり」になって遊ぶのです。あるいは、なった「ふり」をしてあそびます。「ごっこあそび」と言われるのがこれです。特に、3、4歳ぐらいの男の子がよくする、テレビ漫画の「オーレンジャー」とか、「カーレンジャー」とかになって、小山の石の上から飛び降りながら、「トアーッ」、「キック」とか言って、遊んでいるのは、まったくその「つもり」になっているのです。
それらの遊びを見ていますと、子供の生活経験から得た知識がそのまま出てきます。外食したら、その時の様子を再現しながら遊び、病院によく行っている子は看護婦さんになりきっています。かぜ薬を飲んだ次の日には、カップに砂を入れて葉っぱに移し替え、「くすり」に見立てて遊んでいます。お母さん役も、お母さんそのままの口ぶりです。
これらの「みたて」や「つもり」になったあそびをしっかり保証してやることで、心豊かに成長してくれるのです。
久しぶりに、ここ数日、本気で、子供たちとサッカーや野球をして遊びましたが、1学期とは見違えるほど上手になっていて、遊びの高まりや人間関係もずいぶんと深まり、子供たちの成長に手応えを感じています。
1996年11月11日 2:07 PM |
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先日、いも掘りをしました。子供たちは、いっぱい、いっぱい掘って大満足です。
いも掘りが終わる頃、ふと見ると、草むらにいる昆虫を採ることに夢中になっている子供たちがいます。バッタやこおろぎ、カマキリやへびも捕まえている子もいます。その時の子供は真剣そのものです。まさしく、中央幼稚園の子供たちです。カマキリは頭と釜を上に向けて抵抗しますが、子供たちはすばやく捕まえます。女の子が「これなあに」と茶色の幼虫を手に持ってきました。残念ながらその幼虫の名前を失念しましたが、多分、大きな蛾の幼虫だと思います。下半分を持って「右向け右」というと上半分(頭側)が動くやつです。お父さんお母さんの子供の頃もきっと遊ばれたことが有ると思います。「右向け右」と言うと動くので、その子はその幼虫をずっと持って「右向け右」と言いながらみんなに見せてまわっていました。そう言えば、こんな遊びもほとんど見られなくなりました。自然の中で遊ぶことの少なくなったことで、最近は事情がずいぶんと変ってきているのです。
先月、こんな新聞記事を見ました。《ある中学生が『どうしてこんなにいじめられなきゃならないのか』って、昆虫の専門家のところへ泣き付いてきました。この少年は夏休みにたくさんの昆虫を採集し、標本にし、自由研究として学校に提出しました。標本は満足のいく出来で、友達や先生にほめられることさえ予想をしていたのですが、結果はまったくの逆で『かわいそうだと思わないのか』『殺虫鬼』などと罵詈(ばり)雑音をあびせられたというのです。そこでこんな状況をなんとかしようと日本昆虫協会の専門家や愛好家、自然保護委員会委員長の川上洋一さんらが立ち上がったのです。
日本で自然や動物の生息環境の悪化が心配され始めたのは1960年代後半。以降、「自然保護礼賛」の考えが世間に広がると同時に「昆虫採集=自然破壊」のイメ-ジが大人から子供にまで定着してしまった。昆虫の繁殖力は採集量の比ではないので、実際、採集によって昆虫が減っているという事実はないのです。「採集は悪」という短絡的な考え方を解きほぐして理解を求め、「ムシ屋」が受け入れられる土壌を広げようと、初夏から秋にかけてはチョウやトンボをはじめ昆虫の採集・観察会や生息調査、飼育教室を開催しています。
採集や標本は研究目的や自然の産物の蓄積という意味も有りますが、「あらゆる種類の感情を味わえるのが最大の魅力」だといいます。「虫採りに挑む、どきどきした気持ちや手に届かないもどかしさ、人に先を越されたくやしさ、ねたましさ。やっと捕まえた喜びは格別。標本にしても、手を下して殺すときはやはり心が痛むし、それでも手に入れたいと複雑な思いが交差します」と自身の体験を追想しています。こうした感情の体験こそ、今の子供に必要で、豊かな人間性の育成に結び付くのです。
自然体験の乏しさと合わせ「虫にさわれない子供」が増えています。親や教師、とくに小さい子供にかかわる女性の昆虫観が影響して、「虫ぎらい」人口を増幅させているのだと案じています。
「小学校の生活科などで野外に出てきた子供たちによく出会うが、ほとんどが草花中心で虫採り網を持った集団は見たことがない。といって採集至上主義者ではない。直接触れなくても、自分なりの好きな方法で虫に関わればいい。ただ、その機会を保証してやりたい。」と話しています。》
皆さんは、この記事を読まれてどのようなことを感じられましたか。自分の子供の頃にはセミやトンボ、バッタや蝶など夢中になって採っていませんでしたか。そして今、子供がセミやバッタを捕まえていると、「可愛いそうだから離してやりなさい」とすぐに言っていませんか。
子供は、好奇心を持つと、捕まえたいのです。採集したり飼って見たいのです。乱暴に扱ったり餌を忘れると直ぐに死んでしまいます。これらに関わる中での心の葛藤が大切なのです。子供たちが夢中になって遊べる環境と時間を保証してやりたいものです。
1996年10月11日 1:52 PM |
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幼稚園が夏休みの間、プレイル-ムの子供たちは毎日幼稚園に通ってきました。
休みの間、研修会等で忙しくしていて、たまにしか子供たちと遊ぶことができませんでしたが、夏休みの終りに近づいたある日、園庭で遊んでいた男の子が、木にとまっているセミを見つけて「園長先生!セミとって!」というので、そっと近づき、手で捕ると「園長先生スゲ-!」といってくれましたが、その途端に、「頂戴、頂戴」と、たくさんの手が伸びてきました。結局は、最初に見つけて「捕って」と頼んだ子に渡しました。すると、もらえなかった子が、すかさず、「いいもん、ぼく、家にカブト虫もってるもん!」と、強がりをいいます。他の子数人も「ぼくももってるもん」といっています。子供たちはそのように強がりをいって、もらえなかった悔しい思いをコントロ-ルしているのです。そうすることで我慢することを覚えるのです。自制心を獲得しているのです。
そう言えば、最近は『我慢をする』という経験をすることが少なくなってきたように思います。欲しいと思ったものはたいていの場合は買ってもらえますし、兄弟姉妹が少ない分、奪い合いになったり、わずかしかないものを分け合って食べるということは日常の生活では余り見ることがありません。その結果、欲しいと思ったものはすぐ「買って」ということになり、買ってもらえないと機嫌をそこねます。今有るものを工夫して使えるかもしれないとか、他の方法はないだろうかとか考えようともしません。ましてや、苦労なしに手に入れたものには愛着も少ないですから、直ぐに飽きますし、粗末にもします。
ものが十分でないからこそ、我慢することを覚え、欲求を自制することができるのです。そして、その欲求や必要性や興味が強ければ強いほど、他のもので代用しようする知恵や創意工夫する能力が育つのです。我慢することも思考力や創造力を育む大きな基となるのです。
話は元に戻ります。
「そう、カブト虫を持っているの。いいな、いいな」というと、他の子が「園長先生、カブト虫の幼虫はなにを食べるか知っている?」と聞きます。「さぁ、なにを食べるのかな? 土の中にいるから、土を食べるのかな?」というと、それを聞いていた3歳の女の子が「わたし知っている!ゼリ-を食べるんだよ。」……………「?」……………
そう言えば、今年はじめて、カブト虫やクワガタ虫用のゼリ-を売っているのをお店で見ました。私の年代の者から見たら思いもよらないことでした。カブト虫はデパ-トにいるものだと思っている子が増えていると言われ出してだいぶ経ちます。魚も、魚屋さんで売っているのは食べられて、海にいるのは食べられないと思っている子もいます。
子供たちは生活の中での様々な経験を通していろいろなことを理解し、獲得していきます。「ゼリ-を食べるんだよ」といった子は、お兄ちゃんが飼育しているカブト虫にゼリ-を与えているのを見ていたのです。だから、カブト虫がゼリ-を食べるという答えも間違いではないことになります。3歳は3歳なりの経験の中での理解の仕方をしているのです。
そして、成長とともに生活経験も深まり、その中で理解を深め、幼虫は腐った葉っぱ(腐葉土)を食べ、成虫は木の汁(樹液)を吸うことを理解していきます。そしてゼリ-は飼育用に作られた人工の餌であったことも分かってきます。
子供たちがいろいろなことに興味を示し、経験をしながら理解を深めるための重要な役割をするのが好奇心なのです。
お子さんは、この夏休みをどのように過ごされましたか。きっといろいろと楽しい経験をいっぱいして一回り大きく成長されたことと思います。
夏休みは、大人になっても懐かしく思い出すほどのすばらし経験ができるよう、夏の自然が子供たちの好奇心に呼び掛けてくれるのです。今日から二学期が始まります。夏から秋、秋から冬への季節と自然の変化も子供たちの好奇心をくすぐります。
1996年9月11日 1:38 PM |
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